カープダイアリー第8451話「”野球がなければ死んでしまう”カープ球団史よりも長い広島野球の歴史継承者、迫田マジック永遠に」(2023年12月1日)

午前9時過ぎ、メディア関係者の携帯に、かつて如水館高校でコーチを務めていた人物からの電話が入った。その関係者はすぐに事態を理解したと言いう。そのコーチと最後に電話連絡したのがおよそ4年前だったから、だ。

「迫田監督が今朝、お亡くなりになりました」

「やはり、そうでしたか」

「え?ご存じだったんですか…」

「はい、11月中旬に電話で話をさせていただいた時、どうもおかしいとご本人から聞きましたから、原因不明だけど立っているのもしんどいと言われていましたから…」

「そうでしたか…」

コーチからの電話は地元放送局、新聞関係者にもあった。午前10時前後から中国放送、中国新聞などが次々に迫田穆成さんの訃報を伝えた。

広島の高校野球界の先頭に長らく立ち続け、「広商野球」や「如水館の迫田」、「迫田兄弟」で全国に知れ渡り「野球がなければ死んでしまう」が口癖だった名将は「もう一度、甲子園へ」の夢を胸にしたままユニホームに袖を通すことをやめた。84歳で、だ。

今年は戦後78年。原爆が投下された時、迫田さんは6歳。広島が戦後70年目の夏を迎えた時に76歳だった迫田さんはその思い出を語った。

「私が現役の時には(広島商で)甲子園に行って(1957年、第39回全国高校野球選手権大会で主将としてチームをまとめ)優勝して、当時はまだカープが弱かった頃ですから、街が大騒動になったんです。その年の夏に、私たちが高校3年の時にちょうど広島市民球場も完成しました。(同年7月24日が球場開きで)私たちはその夏にはまだ使えませんでしたから、11月の広陵との定期戦で初めて市民球場を使わせてもらいました。よく覚えております。お客さんもたくさん来られて利益が500万円ぐらいあったんではないでしょうか?だから市民球場は我々にとってはすごく愛着がありますね」

「その時、一緒にプレーした仲間には一番を打っておったんですがケロイドをやっている者もいました。当時のマスコミにも取り上げられました。私の周りで言えば小学4年の時と中学2年の時に同級生が原爆症で亡くなっています。葬儀に行くと、お前らもそこらが出るかもしれないから注意しなさい、と言われ“そんなこと言われても…、わしらも原爆症で死ぬるんかな…”というようなこともあったんです」

「弟がいたのですが原爆で亡くしました。2才でした。ちょうど病気で(今の西区)己斐の家で寝ておったんです。私もその時にはまだ幼稚園ですから家におりましたが、すぐに親戚のおばちゃんが来てふとんをかぶって、すぐ下の弟と山に逃げました。それから夜になって、佐伯郡の方からおじさんが二人来て、自転車に乗せられて廿日市の奥の下河内というところへ向かいました」

「おやじは大八車を引いて、おふくろは今の新庄のやつ(新庄→福山監督)がお腹におったんでそれに乗せられて…。それで急に動かした、ということで7日に2才の弟は息を引き取りました。大した病気じゃない、と聞かされておったんですけどね」

「おやじも69で亡くなりましたが、兄弟はみな80を出ていますから、やっぱり勤労奉仕で街に出ておって毒を吸ったのが影響しているのではないでしょうか?市役所の前あたりで家を壊しておって、ちょうどトイレの中に入っていたんだそうです。だから狭くて頑丈で助かったんですね。36人が行かれて、帰ってきたのはふたりだけでした」

「9つ上の姉も街中の女学院に行っておったんで、これもまたおらん、いうことになって毎日、おやじが探しに出て、続けて毒を吸った形になったんでしょう。おやじは30代で総入れ歯になりました。頭髪も抜けて…。それが69まで生かしてもらいましたから、それはすごくありがたいことなんですけどね」

迫田さんは戦後の混乱期を野球とともに過ごした。被爆翌年、己斐小学校1年生時に学校のグラウンドで野球と出会う。実家近くの太田川の河川敷でも大人に混じってプレー。褒めてもらえるのが嬉しかった。

中学時代には「日独青年交換会」の国内メンバー8人に選抜され、1カ月間西ドイツに短期留学した。

1955年、前年に再編されたばかりの広島県広島商業高等学校に進学。2年時には主に「八番レフト」で春夏連続の甲子園出場。翌1957年の第39回選手権大会では、主将としてチームをまとめ「広商4度目の夏制覇」を成し遂げた。

卒業後は家業の洋服店後継者として働く傍ら、社会人野球、高校野球の審判などを務める。野球との関わりが続く中、1966年に広商からの要請を受けコーチに就任、翌1967年秋、監督就任。1969年、第41回センバツでは早々と甲子園ベスト8。

さらに1973年、第45回センバツでは、佃正樹、達川光男のバッテリー、金光興二、川本幸生、楠原基らを擁し、「怪物、江川卓」を攻略して準優勝。金属バットの使用が最後となった同年夏の甲子園決勝、静岡高校戦では相手のスクイズを見破り、九回一死満塁からはスリーバントスクイズで「広商5度目の夏制覇」を成し遂げた。この大会、広島商のスクイズはすべて2ストライクからだった。

迫田マジック…

翌1974年夏も甲子園へ。しかし準決勝で習志野高校エースの小川淳司(現東京ヤクルトスワローズGM)を攻略しきれず敗退。その責任をとる形で監督を辞任した。

その後は、他県の高校のコーチ等を務めたあと、1993年に如水館高校の前身、三原工業高校野球部の監督に就任。1997年夏、春夏通じて同校初となる甲子園出場を果たす。以来、夏6度、春も1度甲子園へ。2011年の第93回選手権では初戦から3試合連続延長戦勝ちを収めて、甲子園ベスト8に進出した。

だが2018年の秋には如水館高校側の“思惑”により、父兄らの反対の声は押し切られる形で監督辞任が発表された。翌2019年3月、如水館ナインに「広島大会、甲子園で勝てよ、そうしたらお前らの感謝を受け取ってやる」との言葉を残し、一度は高校野球界に別れを告げたのである。

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