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毒親の両親に育てられたら一生治らない難病になった


私の親は2人とも毒親です。

毒親の父と、毒親の母に育てられました。


毒親にもさまざまなタイプがあります。

父は、完全にネグレクトでした。

母は、ひどい虐待タイプではないですが、自分の事ばかり考えている体罰タイプ・ネグレクトのミックスタイプです。

幼い頃から、しつけが厳しく、やすらぎや安心を得られず、いつもさみしく心が満たされていませんでした。

結果、人の顔色を伺って気を遣いまくり、自分の思いを言えない性格になってしまい、挙句に完治しにくい病気になってしまいました😢


母子家庭の父

父は、3歳の時父親を事故で亡くし、母子家庭で育ちました。家を支えるため高校に行かず、16歳から住み込みで働いていました。そして自営で店を持つまでになりました。

父には2歳違いの弟がいて、母親(祖母)は弟ばかりをとても可愛がっていました。

そんな父だったので、子どもに対しての接し方がわからず、一緒に遊ぶことはほとんどありませんでした。

毎晩お酒を飲み、テレビのチャンネル権は必ず父。ごはんの時間が少しでも遅れたり、気に食わないことがあると、すぐキレてコタツをひっくり返す。何度もご飯が食べられずに、おなかをグーグー鳴らしながら眠る事がよくありました。だから、いつも怖くてビクビクしていました😨

そんな父に話しかける勇気もなく、自分の好きなことを話して笑い合った記憶はありません。

数年前に亡くなりましたが、思い出す姿は仕事をしている姿でした。一生懸命働いて家族を養ってくれてありがとうって感謝の気持ちでいっぱいでした。ただ、父の事をほとんど知らないし、自分の好きな事や悩みを相談したり、人と人の交流をしたかったな〜。

父の良い所は、生き物が好きなこと。犬・金魚・鳥などいつもペットがいたので、動物たちに触れ合えられたのは良かったと思います。


5人姉妹の末っ子の母

母は、5人姉妹の末っ子。

建築関係の自営業の家で、比較的裕福な家で育ちました。

高校卒業後、自分の店の手伝いと家事をしていました。

外に働きに出ていない世間知らずのお嬢様が、身内に父を紹介され結婚しました。

好き嫌いが激しい難しい性格ですぐキレる夫だったので、常に夫の顔色を伺って、お出かけするタイミングや行き先、晩ごはんのメニューなどすべて夫が決める従順な妻になりました。



子どもより父ばかり見る母

子どもが生まれたら、子ども中心の生活に変わるのが自然の流れ。

残念ながら、我が家は自然ではありませんでした。

子どもが生まれても、父のご機嫌をうかがう母。

父中心の生活は変わらない。


父ばかりを気にしていて、こどもの私を気にかける余裕はありません。

そんな母を、私は常にみていました。

大好きだから

大好きなお母さんだから


いつも見ているから、母の表情のわずかな変化で、一喜一憂がすぐわかります。

母が笑っている時は私も楽しい♪

しかし、そんな時は一日のうちで数えるほどしかなく…

”お父さんのご飯を作っている時、話しかけてはいけない”

”お父さんのお仕事を手伝っている時、話しかけてはいけない”

”お父さんがご飯を食べている時、話しかけてはいけない”

そうやっていつもみんなが和やかでいられるよう

お父さんが怒らないように

お母さんが機嫌がいいように

神経を集中させ、おとなしくしていました。

母が何もしていない時が、私を見てくれる時✨

いつもいつもそのタイミングがきてくれるか、母を見て待ち続けていました。

(おかげで忍耐力はつき、とても辛抱強くなった)


しつけという体罰

母はとてもしつけが厳しい人でした。

特に、食事の作法にはうるさく、箸の持ち方が悪いとすぐ手を叩かれました。

少しでもご飯をこぼすと激怒され「もう食べなくていい!」と食事を取り上げられました。

お腹をすかせて寝ることも少なくなかったです。


私には弟がいるのですが、弟が泣けば私が叩かれました。

私は何もしていないのに…

必死で「私は何もやってない!」と訴えていたのに、まったく聞き入れてもらえず。

鬼の形相で叩かれ、怖くて理不尽で涙が止まりませんでした。


置き去り

一緒に買い物をしていて、欲しい物を買ってもらえず悲しくて泣いたら、「うるさい!」と叩かれていました。

5歳のころ、買い物している時、欲しい物があったけど買ってもらえず泣いていました。

その時、母の機嫌が悪くブチ切れしたようで、すごいスピードで歩き、私は置き去りにされました。
私は怖くなり、泣きながら一生懸命に母を追いかけました。
気がつくと、道路の真ん中に!
バスがキキキーッッ!と急ブレーキで止まりました。

いつの間にか車道に飛び出していたようで、バスが急に目の前にきてビックリして体がかたまり、まったく動けませんでした。通りがかりの見知らぬおばさんが、一緒に歩道に連れて行ってくれたのを鮮明に覚えています。

あれは本当だったらバスに轢かれていたと思います。
けれど、ご先祖様の加護のおかげか、奇跡的に助かりました。



思ったことが話せない

いつもビクビクしていた環境だったので、今思ったこと・感じたことをすぐ言葉にして

「こうやりたい」

「これが好き」

人にすぐ伝えて共感する

そんな喜びを知らず育っていきました。


だから、いまだに自分の思いを人に伝えるのは苦手。

自分の思いを自分だけで解消するクセがつき、どこに行っても他人からは気難しい人に見られます。


しっかりした子と言われる

何をするにもすべて一人で考え、一人でやりました。

他人に甘えたり、頼ったりすることもせず、しっかりした大人びた子どもになりました。

よく大人に褒められていました。

「◯◯ちゃんはしっかりしているね~」と。

そう言われると、とてもうれしかった。


けれど、子どもは自由奔放でワガママなのが、本来の姿。

そんな褒め言葉は、とても悲しく切ない😞




褒められない

両親から褒められることもありませんでした。

父は、もともと無口であまり関わらないので、私のことはほとんど知らないと思います。

母は笑顔が少なく、子ども目線で接することはなかったので

「よくできたね!」

「◯◯ちゃん、えらいね!」

と頭をなでられながら、褒めてもらうことはありませんでした。

大好きな母がいつも忙しなく動いてる母。少しでも休んでもらいたいと母のお手伝いをすると、母が楽できた時にだけ「ありがとね」とボソっと笑顔もなく言ってもらえていました。滅多にないですが。



人形遊びが至福の時

いつも1人だったから、ひとり遊びが上手になり、中でも人形遊びばかりしていました。

その時は、自分の世界が作れて自由な時間。

魔法使いになったり、お姫さまになったり好きな世界に浸っていました。

両親に気を遣わなくていい安らぎの時間でした。

テレビも笑っている人が多いし、キラキラした世界だから、好きで何時間も見ていました。

だから、今でも1人でいる方が楽だし、好きです。

コロナの緊急事態宣言で外出規制中、ニュースで人と会わないから鬱病になる人が増えたと言われて、私は驚きました。そんなにも誰かと一緒にいないと寂しい人が多いんだと。



救世主 隣の優しいおばさん

隣の家に、私より1歳年下の男の子がいて、いつも遊んでいました。

その子のお母さんは、いつも笑顔でとても優しく我が子に怒ることがない仏さまのような人でした。

お菓子もくれたりするのですが、何より目を見て話してくれることが1番うれしかったから。

目をみておしゃべりすると、優しく微笑んでくれるおばさん

とても温かく安らぐ。

だから、ほぼ毎日行っていたと思います。

3歳くらいから、1人で。

今の時代では考えられないですね😅

男の子と遊んだ記憶より、優しいおばさんの方が鮮明に覚えています。

おばさんの家は、小さな旅館を営んでいました。

出張の人が寝泊まりする、食事なしの簡易宿泊所のような所でした。

家の入り口までに、お稲荷さんを祀っていました。

初めて行った時「ここで手を合わせるのよ」と教わり、それから行くたびに手を合わせてから、家に入っていました。

そのお稲荷さんが、私の人生に大きな影響を及ぼすなんて、思いもよりませんでした。この話はまた書きます。


人とうまく関われない

笑顔が少なく口ベタの私は、たくさん友達ができず、人とうまく関われません。

学生時代、イジメられました。

社会人になっても上司にイジメられました。

今も自分の思いを伝えるのが苦手で、本心を話せる人は0です。

それでもなんとか生きてこれてるのは、神がかり的な何かのおかげと思っています。


いつも自分を責める

何か悪いことが起きれば、すぐ「私のせいだ。私のせいでこうなったんだ。私が悪いんだ。」といつも自分が原因だと思っていました。

そして「何やってるの!なぜあんなことしたの!」と、自分を責め続けていました。

私は、人前で涙を流すことができません。悲しい時でも、涙はガマンできます。

唯一、涙がガマンできない時があります。

それは、自分自身に情けないと思った時。この時だけは、涙が次から次へとあふれ出て、止められません。

仕事中でも、涙が出てしまうので、そんな時はトイレへ駆け込みます。

自動車教習の時も、指導員に悪い所を指摘されている時、突然涙が出て止まらなくなりました。あまりにもずっと泣いているので、こわいと言われる指導員も困惑していました😅


私がお母さんに見てもらえないのは

私が悪いから

自覚はなかったけど、いつもそう思っていたのでしょう。




母とは疎遠に

社会人になってから、母と仲良くしたいのに、なかなか折り合いが悪く、理解し合えません。

だから、家を出て1人暮らしを始めました。

1人暮らしは大変で、料理が苦手だけどなんとか作っていました。

母は、父のために毎日3食作っていたので、そこはすごいと思うし、充分に食べれていたので、そこはありがたかったです。


熱が続いた

ある時、熱が出て「いつもの風邪か」と思ったら、薬をのんでも何日も熱が下がりません。

おかしいと思い、病院で診察したら、医師に「両手肩まで上げてみて」と言われました。

「何言ってるんだろう?」と思いながら、言われた通り手を肩まで上げると、手がプルプル震えるではありませんか!

「えっ⁈何これ‼︎」とびっくりしていると、医師は「大きい病院紹介するからすぐ行ってください」と言われました。

「こんな症状で大きい病院⁈」とさらに驚きました。


一生薬をのまないといけない病

後日、言われた通り大きい病院で検査・診察しました。

医師は「バセドウ病ですね」と言いました。

「何⁈そのおそろしい名前😱」

と恐怖に慄きました。

首元に甲状腺というホルモンを貯めてる場所があり、ホルモンの量が多すぎると説明されました。

東北大震災前だったので、甲状腺って初耳だしホルモンのバランスなど、すべての話が初耳で驚くばかりでした。

治療法は《手術・放射線・投薬》があり、その中から選んでくださいと言われました。

調べてみると、手術は後遺症が出るみたいでした。

放射線は、数回行くみたいで、やり方が仰々しいので怖いと感じました。

投薬は、一生のみ続けないといけません。

手術か投薬どっちかと迷いました。手術だと何日か休まないといけないし、その後も影響出るかもしれなく怖かったので、最終的に投薬にしました。

薬も合わなかったら、高熱が出たりひどい副作用があると言われました。

おそるおそる薬をのんでみたら、熱も出ず副作用が出なかったので一安心でした。

それから現在までずっと薬をのみ続けています。


外出できない

しかし、薬をのんだから良くなる訳ではありませんでした。一時的にホルモンを抑えているだけなので、とても疲れやすく、仕事から帰ってからは倒れ込むように眠って、いつも体が重い状態でした。

休日も外へ出ると、夕方ごろに倒れ込みそうになるので、よっぽど体調の良い時しか出かけられませんでした。


橋本病

その後、年齢を重ねるうちに、ホルモンが少なくなり、今度はバセドウ病から橋本病になってしまいました。

橋本病になると、さらに体は重くなり、これまでの無理が祟ったのか、家事ができなくなりました😔


バセドウ病も橋本病も、自分自身を攻撃する自己免疫疾患です。

体を正常に保つための免疫を、攻撃しているんです。

なぜそうなったのか自己分析したら、わかりました。

自分が情けないのは自分が悪いから

そういつも自分を責めていたから、体が反応したから、こんな難病になったんだと思っています。


不幸な人生


ずっと体が悪く、何をやっても満足で達成感がありません。何かをあきらめることも多く「自分は幸福な人生じゃないな」と思っています。

本当に幸福なのは、健康な体があってこそ。体が健康だと心も健康になります。心身ともに安定しているのが幸福な人生だと思います。

健全な両親に育てられていれば、健康な自分で、幸福な人生をおくれていたのに…

両親が笑顔で接してくれていたら

私と向き合ってくれていたら

私を見てくれていたら

ただそれだけで良かった。


何か不運な出来事があったり、思い通りにならない時、なぜそうなったか分析しています。そうすると"すべての元凶は親"に行き着きます。

病気に苦しみ、そのせいで仕事もうまくいかず、楽しく生きられない…

こんな人生にした両親を、一生許すことはないと思います。









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