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漫画家だった

会社員になりたくなくて

漫画家になった理由は簡単だ。会社員になりたくなかった。
毎日同じ時間に起きて満員電車に揺られ、夜遅くに帰宅し、家には寝に帰るだけ。そんな暮らしは絶対にしたくない、と小学生の頃から思っていた。
なぜなら、物心ついた頃から父親がそんな生活をしていて、全く楽しそうに見えなかったからだ。

要は在宅ならなんの仕事でも良かったわけだが、絵を描くのが好きだった。
家で絵を描く仕事、となるとイラストレーターか漫画家あたりに選択肢は絞られる。
イラストレーターはなり方がわからなかったけれど、漫画家は漫画雑誌の巻末あたりに投稿システムの説明があった。
毎月賞が設けられていて、そこへ16ページの作品を描いて応募し、大賞をとれば漫画家デビューだ。

というわけで15歳くらいから投稿というものを始め、親のスネをかじれる限界の、大学を卒業する22歳までにデビューしようと計画を立てたのだった。

20歳で漫画家になった

15歳から18歳くらいまで、2〜3ヶ月に1本描いてとある少女誌に投稿していた。そのうち佳作くらいには入るようになって、5万円の賞金と、カットとペンネームが小さく紙面に載るのが嬉しかった。

漫画が作られている現場に行ってみたくて、出版社に原稿を持ち込むようになった。編集者から業界話を聞いたり、漫画家の卵が集められる研修に参加したり、女子高生だった私は、世界が広いことを知った。部活や遊びに夢中になっている同級生が、とても幼く見えていた。

でもあと一歩のところでなかなかデビューできない。大学へ入学し、この4年のうちに何らか結果を出さなければ、と焦り、試しに持ち込む出版社を変えてみたら、あっさりデビューした。20歳の時だった。

デビュー2作目でアンケート2位

漫画雑誌は大抵本誌と別冊があって、ざっくり言うと本誌は売れっ子が連載するところで、別冊は新人が読み切りを載せて下積みするところ。別冊でアンケート上位にランクインすると本誌に行けるシステム。

私の場合、ラッキーなことにデビュー2作目で別冊のアンケートで2位をとって、初めて本誌に読み切りが載った。
その後も大学に通いながら、数ヶ月に1本描いて、本誌と別冊をいったりきたり。1本描くと原稿料が30万入る。大学生にはいい額だ。扉絵がカラーになったり、ファンレターをもらったり、共著だったけど単行本も出た。

今から考えると悪くないステップに思えるけれど、当時はとにかく焦っていた。同期の誰よりも早く連載をとりたかったのだ。
私の作風は、絵柄は華やか、話は変わった設定やテーマを扱いがちで、パンチがあって目立つんだけど、王道じゃないから少女誌の看板作家になれるようなタイプじゃなかった。

漫画家を辞めるとき

行き詰まりを感じ始めていたその頃、ちょうどインターネット創生期で、2chで叩かれた。
丹精込めて作った作品を、見たこともない不特定多数の集団からモニタ越しに罵られ、むき出しの悪意をぶつけられる。
金払ってつまらんもの読まされたら文句のひとつも言いたくなるだろう。と、今ならわかるけれども、ハタチそこそこの私は傷ついた。
それから物理的に描けなくなってしまった。一コマ描く事すらしんどい、真っ白な原稿用紙に向かうだけで苦しい。担当からの催促の電話が怖い。

漫画家というのは職業でなく生き方だと思う。人生かけて描きたいものがある、お金がもらえてももらえなくても、認められなくても批判されても、表現したい何かがある。
ただ満員電車に乗りたくなくて漫画家になっただけの私は、あっという間に描きたいネタも情熱も尽きてしまったし、アンチやスランプなど、漫画家だったら当たり前にあるそれらの障害を乗り越えてまで、描き続けたいとは思えなかった。
そして読み切りを10本くらい描いたところで、漫画家を辞めた。

15歳から20歳まで、青春の大半を費やしデビューしておいて、漫画家として活動したのはたったの3年だった。

夢を叶えたその先に

今、漫画家時代に培ったものは特に何の役にも立っていない。まるでなかったことみたいに暮らしている。

紆余曲折を経て、父親と同じ「会社員」になった。もう10年になる。
会社員最高である。まず見ず知らずの人に罵られない。罵られるとしてもせいぜい顔見知りだ。
そもそも真っ当な組織で滅多なことでは個人攻撃にはならない。苦労も喜びも分かち合える、チームで助け合える。楽しいことも苦しいことも、みんなで笑い合えるって素晴らしい。
都心に住んでIT系勤務なら満員電車に揺られることもない。
会社員って楽しいね、お父さん!と、定年過ぎてもなお働いている父に今なら共感できる。人生何が起こるか分からないものである。

青春の通過儀礼

漫画家を目指し始めてから足掛け8年、時間を無駄にしたと思える時もある。
それでも、努力して目指した場所に辿り着くといった体験は悪くなかった。

B4の原稿用紙を抱えて足繁く通った神保町。自分の手で生み出したものに価値がつき、お金がもらえるということ。刷り上がった見本誌のインクの匂い。掲載誌が本屋に並んだ時の高揚感。

努力して、報われて、挫折して、再生する。
大半の人が勉強や部活で体験するこの通過儀礼を、私はちょっと変わった形で体験したのだった。

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ちなみに、漫画家時代の絵を載せようと思って探したけれど発掘できず、キャプションで使っている画像は漫画を辞めた後、ファッション誌の挿絵で食っていたころのイラストです。

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