見出し画像

広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その73

普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今日は使徒言行録の一番最初の記事です。使徒言行録とはイエス様が昇天してからの弟子たちの活躍、パウロの活躍を描いた箇所で現代と神様の歴史としては地続きになっている箇所です。昔聞いたわけわかんなかった話があとでわかってくるというお話にしています。

使徒言行録1章3節から5節
3:イエスは苦難を受けた後、御自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された。4:そして、彼らと食事を共にしていたとき、こう命じられた。「エルサレムを離れず、前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。 5:ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである。」

Copyright: 日本聖書協会

高校の国語の授業で歌人の俵万智さんのことを教えてもらったことがあります。有名な歌に「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日という歌があります。高校生の頃はこういうことを思いつく人っていうのはいきなり思いつく、パカーンと思いつくと思っていたのですが高校の先生がおしえてくれたのは最初はカレー味のからあげをつくったら当時お付き合いしていた男性がおいしいっていってくれた、というところから思いついたそうです。サラダ記念日というサという音から始まるから透明感が出てよいとかなんとか、そんなことを高校の先生に教えてもらいました。

その授業のことは頭の底に残っていたんだと思います。そして自分が広告をつくる仕事についたときに思い出したんですね。あーそりゃそうだ、いきなりパカーンと思いつくわけないわなと。かけらみたいなのを思いついてからそっから試行錯誤を、なんかいもいろんなことを試してそこに辿りつくんだなあと、仕事をし始めてからからあげがサラダになったことをなるほどーそりゃそうだ、と思ったんですね。
 
もうひとつ新入社員の時に先輩が「男は痩せ我慢だぞ」と言われて22歳ぐらいの時はん?今どきなにいっちゃってんの?と思ったことを覚えています。でも48歳になった今は、時代は変わって男か女かは関係なく痩せ我慢って大事だなあと思うんですねえ。
言われていたことが、あとで、あーあれってそういうことだったんだーって時間が経ってからわかることってあるんですね。
 
お弟子さんたちも、この頃はまさにその状態。十字架にかかる前にイエス様のお話をたーくさん聞いてきたわけなんですね。聞いてきたんだけど、十字架にかかって復活されたから、なるほどそういうことかあと思うことがたくさんあったと思います。

ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、40日にわたって彼らに現れ神の国について話された。とあります。十字架にかかって死んだけど、復活したよ、ということをこないだは漁に出てお魚が取れなくてこまっていたお弟子さんに現れて、確かにイエス様だ!となったり、手のひらと脇に傷がないとイエス様生まれ変わったとは思わないよといってたトマスさんというお弟子さんの前に現れたりといろいろな形で、復活したんだよ、ということを伝えていったわけです。

そこでお弟子さんは、あ、この人は自分達が想像していた人じゃないんだ、存在じゃないんだーとわかったんだと思います。
その想像をこえてきた存在の方が語る神の国ってこういうことだよ、はなるほどーだったと思います。
いままではこの地上の考え方で聞いてたけど、この人が言ってるのは人間が考える生きるとか死ぬとかそういう話じゃないんだ・・・と思ったと思います。だって死んだのに生き返ったんだもの・・・という。死ぬことを恐れて生きる人間のレベルじゃねえって感じです。

イエス様は福音書でいろんな神の国のお話をしています。
たとえば、朝から働いていた人がいて、夕方から働いていた人がいて、じゃあお給料払うからならんでーという話があります。普通考えると朝から働いていた人の方がお給料多くもらえると思いますよね。でも、夕方から働いていた人からお給料をわたしていきます、はい1万円、みたいな感じで。で、朝から働いていた人にも1万円、って渡すわけです。ええ、って。人間の時間の感覚からしたらおかしいわけです。
こないだ会社の人にこの話したら、めっちゃおかしい!って言われました。そうですよね。当時のお弟子さんも同じことを感じたと思います。

でもその人間の考え方を超える考え方をもっている、イエス様が考える世界というのはこういう世界なんだと、人間は時間というものをいちばん大事に考えているし、生きている間に自分がどれだけいい思いをするかで考えてしまう生き物なんですね。それがまさに罪とよばれるもの。その考え方だけで生まれて育って死んでしまう人がたくさんいます。でも、そうじゃないんだとイエス様はおっしゃっているんですね。神の国があるんだと。神様の考え方でこの世界を見なさい、とおっしゃっているんです。どうしても神の国と聞くとどっか別の世界だと思ってしまいがちなんですね。お弟子さんたちもそう思っていました。でも、あ、そうじゃないんだと、この世界に神の国があるんだということを信じるようになりました。
 
それはイエス様が復活されたから、あー、この世界でも、神様がいるんだーと思ったということ。そしてこの地上で神様が生きているんだーと思ったことがお弟子さんたちの希望になったということなんです。あー人間だけの考え方で生きるんじゃないんだなあと。
 
そして、そのイエス様がいいました。エルサレムから離れず、前にわたしから聞いた父の約束されたものを待ちなさい。と。
これは何か、これから話に出てきますが、聖霊がこの地上に与えられる時がくる、とイエス様はおっしゃっています。
洗礼というのは罪を自覚して、神様とつながる儀式ですがそれまではバプテスマのヨハネという人が授けていたように水でやってたけれども、次からは聖霊というもので洗礼を授けることができるようになりますよ、とあります。なかなか難しいですがこれもまて日曜学校でお話を聞いていくことで少しずつわかっていくことだと思います。
 
このお弟子さんたちが、イエス様に出会って、イエス様の神の国のお話をきいて、最初は意味がわからなかったけど、イエス様が十字架で亡くなって、そして復活してその復活したイエス様に出会って、神の国のお話を改めて聞く、そしてあー、前におっしゃっていたのってこういうことだったのね、となって勇気づけられてこれからこの神の国のお話を世界中で広めていくということになるわけです。

日曜学校に来ているみなさんも、このお弟子さんたちとおんなじです。聖書のいろんな話を聞いて、イエス様っているんだー、へえ、不思議な話だなあとなります。普段、生活している世界とは違うなあと思います、それは当然のことなんですね。そこから、イエス様が十字架にかかって復活された、ということが、心の中にすっと入ってきた時に、あーそういうことだったんだーとなるんですね。心の中でわかるということ、この心の中にすっと入ってくる、それを導いてくれるのがこれからお話がでてくる聖霊、なんですねえ。不思議です。
 
みなさんが日曜学校で聞くお話、なんだかこの世の話とは思えないぞ、と思うと思いますが、その話を心のどこかにそっと置いておいてください。それが、みなさんの人生のいつか、いつ訪れるかわからないですが、その時に、あーそういうことだったのね、となります。必ずなると日曜学校の先生は信じていますし、そうなるようにお祈りしています。
おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?