見出し画像

広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その61。

普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今日は2人の病気をいやしたお話です。なりふりかまわず、イエス様にお願いできるかどうか。そこまで求めているかどうか、問われる話です。なぜ触ると治ると思ったのか、が面白いです。

マタイによる福音書9章18節から26節
18:イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、生き返るでしょう。」 19:そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だった。 20:すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄って来て、後ろからイエスの服の房に触れた。 21:「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったからである。 22:イエスは振り向いて、彼女を見ながら言われた。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」そのとき、彼女は治った。 23:イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を御覧になって、 24:言われた。「あちらへ行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。 25:群衆を外に出すと、イエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると、少女は起き上がった。 26:このうわさはその地方一帯に広まった。

Copyright: 日本聖書協会

<なりふりかまわず>
10年ほど前ですが、アメリカのフロリダにあるNASAのケネディ宇宙センターというところに行きました。そこのガイドさんが、注意事項を教えてくれました。みんな夢中になっちゃうんで、お昼ご飯のサンドイッチをちゃんと食べて、時間を守って集合してくださいねと。10年ほど前ですからみんなオトナです。35歳。みんなのお父さんぐらいですよ。そんなアホなと。そう思ってついたらまあ、実物大のアポロロケットはあるわ、月の石はあるわ、本当に楽しくて、気がついたらお昼のサンドイッチ食べるの忘れてました。我を忘れるというのは本当にあるんだなあと思いました。なにか一つのことに夢中になってしまってなりふりかまわず、ともいいます。
なりふりかまわずというのは、他人からどう見られようが、そのやり方がかっこ悪くても、何かを求めること、すること、なんですね。
NASAの話は夢中になって、なりふりかまわず、というお話ですが、今日のお話は本当に困って、なりふりかまわず、イエス様に会いにいった2人のお話です。
 
<ユダヤ教の指導者が求めたこと>
ひとりめのなりふりかまわなかった人は、ある指導者です。この指導者というのは当時のユダヤ教の偉い人でした。当時イエスさまはイスラエルでとても有名でした。病気を治してくる人としてとても有名だったんです。でも、ユダヤ教の偉い人からしたら、めんどくさい存在で、いままでのユダヤ教のやり方を、批判している。イエス様があんまり人気者になってしまっては、ユダヤ教のやり方を信じない人がでてきそうで、イエスさまにはあんまり目立って欲しくないと思っていたんですね。だからこの偉い人からしたらイエス様に何かお願いごとをするなんてとんでもないことだったんですね。なぜなら、その自分の立場とか、自分のお仕事に悪い影響を与えてしまうから。でも、この人、他のところではヤイロさんという名前が出てるんですが、彼がひれふして言いました。「わたしの娘がたったいま死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば生き返るでしょう。」と。彼も自分の子供のためだったらといろんなお医者さんに頼んだり、いろんな治療法を試したと思います。彼はお金もあったでしょうし、いろんな人も知っていたからです。それでも自分の娘が死んでしまった。そこで本当に最後の手段、自分のプライドも捨ててイエス様にひれふしてすがった、ワラをも掴む気持ちで、イエス様にお願いしたんですね。この必死さ、本気さに、イエス様は愛をもって応えられました。その人が普段、イエス様に対してどういう考えを持っているか、そんなことは一切気にせずに、ただ、その人の家に向かいました。

<服のふさをさわれば治る>
そうするともうひとりなりふりかまわない人が現れます。長い間病気で苦しんでいる女性が近づいてきました。この女性はさっきの指導者みたいに偉くもなく、堂々とイエス様に話しかけることもできない、そんな人でした。でも本当に困っていました。長い間病気にかかって、いろんな治療をしてきたけれども、結局なおらずでお金も無くなってしまいました。そこでまたわらをも掴む気持ちで、イエス様に会いにきました。そこで彼女は何をしたのか。なんとイエスさまの服のふさ、服についているヒモ、かざりみたいなものにさわったんですね。イエス様がさわってくれたら治るという噂は聞いていたんだと思いますが、そんな、大人気なイエス様にさわってもらえるかどうかわからない、じゃあ自分で触ろうと思ったんだと思います。触ろうとおもったけれども、当時イエス様は大人気ですからもみくちゃという状態だったんだと思います。実際他の聖書の箇所では、誰がさわったのかわからないぐらいもみくちゃだったそうです。

<触れば治ると思っていた唯一の人>
そこでこの女性は「この方の服に触れさえすれば治してもらえる」と思ったそうです。みなさんどう思いますか?うそーと思いますよね。でも、12年も同じ病気で苦しんでいて、イエス様という病気を治してくれるという噂の人がいて、いま自分にできることはイエス様を触ることだけだ、、となったら、どうでしょうか?本当に求めていることは確かです。彼女が本当に治してもらいたい。イエス様に治していただかなかったらもう治らないんじゃないかと思ってました。そんな思いでイエス様の服のふさに触りました。そうすると病気がなおったんですね。
他の聖書の箇所では、イエス様がそれに気づいてまわりのお弟子さんに聞きました。「いま、わたしに触った人がいたけど誰かな?」と。それに対してお弟子さんがいいました。「こんなにいっぱい人がいるのに誰がさわったなんてわかるわけないじゃないですか」と。それぐらいいろんな人と触れていたイエス様なんですが、その中で「イエス様の服にさわれば病気が治る」と思って触った人はこの女の人だけだったんですね。ここがとても大事なことなんです。イエスさまにこころから「困っています、わたしを助けてくれる人は、あなたしかいないんです。」と思っていること。それが信じるということですが、そう思っていることが一番大事ということです。イエス様はこうおっしゃいました。「娘よ、元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。」と。改めてこの箇所を読むとこの言葉の重み、凄さに感動します。

<あなたの信仰があなたを救った、という意味>
あなたの信仰があなたを救った。という言葉。病気を治すにはいろいろな方法があります。病院に行く、薬を飲む、健康にきをつける、いろいろあります。それは正しい方法をやれば、病気にあったやり方、勉強して、と人間が考える正しい方法を追求すれば、病気が治る。ということだと思います。でもこの12年間病気に苦しんでいた女性は人間がやれること、ぜんぶやりました、それでも治らないのです、となって何をすればいいかわからず、ただただ、イエス様ならなんとかしてくれるはずだという、そのなりふりかまわない、その理屈を超えた、信じるチカラ、それをイエスさまにぶつけたんですね。別にイエス様は私の服を触れば病気が治るよ、って言ってたけじゃありません。普通の人間の考え方からすれば服を触れば治るなんて思いつきませんし、科学的に正しいわけではありません。でも、この人は、理屈を超えた信じるという気持ちをイエス様にぶつけました。それにイエス様は応えてくださったんですね。ちゃんと並んでイエス様に会いにきました、正しいやりかた、順番まもったから、とかじゃないんですね。あなたの信仰があなたを救ったは、あなたの信仰だけが、あなたをすくった。とも言えるんです。あなたの身分も、あなたのいままでのことも、あなたのやり方も、どうでもいいと。あなたのいま、この信仰、信じること、だけが、あなたを救った。と。この言葉の意味がじんわりきます。
そしてなりふりかまわなかった指導者の家にいってイエス様は指導者の人の娘さんの手を取るとその娘さんは元気になりました。
 
みなさんも、本当に辛い時、本当に助けてほしい時に、いままでそんなにお祈りしてなかったし、教会に行ってなかったし、そんないい人間じゃないし、こんな時だけ神様にお願いするのっておかしいんじゃないか?と思うかもしれません。でもそうじゃないんですね。あなたしかいないんです、という信仰があれば、いつでもイエス様は応えてくださいます。これから大きくなってみなさんが教会からたとえ離れていたとしても、いつでも教会は迎えてくれます。イエス様は迎えてくれます。あの女性のように、ただ、イエス様の言葉に触れたいと思ってぜひ、教会に来てください。お祈りをしてください。 おしまい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?