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広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その68。

普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。
今日は100匹の羊を飼っている羊飼いが1匹が迷子になったらどうするか?のお話。キリスト教では神様を羊飼い、人間を羊と表現することがよくあります。その当時の世界では身近な職業だったんですね。神様の愛って不思議だなーというお話です。


マタイによる福音書18章10節から14節
10:「これらの小さな者を一人でも軽んじないように気をつけなさい。言っておくが、彼らの天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである。 11:*人の子は、失われたものを救うために来た。 12:あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。 13:はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう。 14:そのように、これらの小さな者が一人でも滅びることは、あなたがたの天の父の御心ではない。」

Copyright: 日本聖書協会

<コスパとタイパ>
コスパって言葉を聞いたことありますか?コストパフォーマンスの略なんですね。お金かけた分どれだけいいことがあったか、ということでよく使われます。たとえばUSJの値段、8600円だそうです。コスパがいいのか?悪いのか?8600円分の元をとれるのか、みたいな言い方をしますよね。スーパーで売ってるお肉とかも100グラムあたりいくら、って書いてますね。あれもコストパフォーマンスを考えるのに使えますね。安くておいしかったら、このお肉コスパよかったわー。みたいな話もするわけです。そしてさらにコストの次はタイムパフォーマンスという言葉まで登場してきました。時間をかけた分、いいことがあったのか?という考え方。なんと略してタイパっていうんです。それに時間かける意味があるのか?ということまで考えるようになってるんですね。いま、情報を調べようとおもったらいくらでも調べられるので、本当にそのモノだったりその体験だったりに価値があるのかをみーんな知りたがってるんですね。で、損しないようにしないようにと頑張っているんですね。
 
<当時とても大切されていた羊>
今日のイエス様のたとえ話。羊飼いが100匹の羊を飼っていたそうです。そこで1匹迷子になってしまったそうです。この頃の羊飼いさんというのは3人ぐらいのグループで、羊と一緒に草があるところを見つけて食べて、また移動してということをずっとしていたんです。でもその草があるところというのはいまの牧場みたいに柵で仕切られていたわけではないので、よく群れから離れていなくなってしまったそうです。迷子になっちゃうんですね。そんなとき、1匹でも迷子になったら絶対に探しにいっていたそうです。それはなぜかというと、羊がみんなのものだったからだそうです。自分のものだったらたとえば99匹いればいいやあと思ってほっといてもいいかもしれませんが、みんなで持っている羊だったのでそれは絶対にみつけないとだめだったそうです。残りの99匹は三人グループのうち二人にまかせて、がんばって探しに行きます。そして、がんばってみつけてくると村の人はわーって喜んでくれたそうなんですね。それが当時の羊飼いの習慣、みんなそうしていたそうです。それほど羊は大切にされていたんですね。

<神様の愛し方>
なぜイエス様はその話をされたんでしょうか。これは、神様がどれだけ人間、わたしたちを愛してくれているかを表現するためにお話されたんです。羊飼いが羊を愛する、大切にするように、人間を愛して、大切にしてくださっているということ。その愛しかたについて説明するためのたとえ話だったんです。

<ひとりひとりを大切に>
まず、ひとりひとりを大切にしてくださるということ。99匹も大事だけど、1匹1匹が大事。ひとりひとりを大切に。いなくていい人なんていないんだということ。かみさまはわたしたちひとりひとりと関係があるってことなんですね。人間というのをばっくりと愛してるとかではなく、ひとりひとり。なんです。人間の場合はひとりひとり、愛することはできるかもしれないけれど愛せる人数は限られていますよね。でも神様は違います、100匹、1匹一匹を愛することができるんですね。

<迷子の責任を問わない>
もうひとつは迷子になるのは羊が悪いんですね。そんなん自分からいなくなってんから羊の責任やろーって、いちいち見てられへんわーって思っても別にいいはずですよね。人間もそうです。神様の近くにいればいいのに自分で勝手に離れていってしまって、なんで生きてるんだろー、どう生きていけばいいんだろうーって人生の迷子になってしまいがち。それが人間です。そんな人間を、人間が悪いんだからほっとこう、マシな人間99人いるから、そっちさえいればええわー。とはならずに神様から離れていく人間を絶対に探してくださるんですね。

<自分から探しにきてくださる>
そしてもうひとつは羊は自分ではもどってこれません。羊飼いが探しにいくんですね。神様が99匹の近くいて、待ってたら帰ってくるかなーってやってるわけじゃなくて神様から探しにきてくださるということなんです。悪いのは人間なんだから、どかーっと座って、戻ってきたかったら戻ってきたらええんちゃうか?ってしてもいいのに、神様はこの羊飼いのようにわたしたち人間を探しにきてくれるんですね。反省してるなら探してやるとかではなく、ただただ愛して探してくださるんです。有名な放蕩息子という譬え話があります。息子が家でして離れていってしまったけれども、あーお父さんのところに帰ろうとなって、お父さんの家に戻ってきたら、あのお父さんは家出した息子がみえたら、なんとお父さんの方から息子の方に走っていってだきしめてくれたというお話。息子が反省して、謝ったら許してやろう、とかそういうことじゃなくて、走ってきていきなりだきしめる、それと同じで羊飼いの方が羊が反省していようと、していまいと関係なく、羊を探しにきてくれるということなんですよね。それが神様から離れて迷子になってしまっている人間にたいする神様の愛なんです。

<責任を追求せずに喜ぶ>
そして迷子になって羊がみつかったらとっても喜ぶんですね。羊に対して、なんでそんなことしたの?とかそういうことを言わずにただただ喜んでくださる。これも神様の愛なんですね。13節に99匹よりも1匹を、というふうにおっしゃいます。この99匹の気持ちは?と思うかもしれませんがこの羊はもうすでに神様のそばにいるひとたちなのでもう安心して暮らせてるんですね。放蕩息子でいうとお兄さん的な立場ですね。
 
<コスパ、タイパを超えた愛>
さて、神様の愛って不思議ですねえ。ひとりひとりを愛してくださる。ひとりひとりと向き合って、愛してくださる。なんで迷子になったの?と責めたりしない、迷子になったのが悪いのに、迷子になった人を待つのじゃなくて探しにきてくださる、そして見つかったらただただ喜んでくれる。
人間だったら、コスパ悪いですよね、探しにいくのめんどくさいし、99匹無事だったらいいやん、ひとりのためにそこまでするの?ってなりますよね。なにより時間がもったいない。99匹と一緒にいた方が効率いいですよね。99倍いいですよね。人間から考えたら計算があわない、コストパフォーマンス、タイムパフォーマンス、両方無視した愛し方なんですよね。こっちがこれくらい愛しているならこれぐらいかえしてもらわないと、これぐらいいいことしてくれないと、っていうのが人間の世界の考え方。でも神様は全然違いますよね。

<その愛を知った生き方を>
神様の愛しかたというのは、人間の感覚ではわからない愛しかたなんです。コストパフォーマンス、タイムパフォーマンス完全無視。神様から離れていってしまっている状態の人間。これを罪な状態といいますが、その状態でいる人間を神様の方から救いにきてくださった。探しにきてくださった。それがイエス様の誕生なんですね。この1匹の羊を探しにくるために、それはみなさんひとりひとりを探しにきてくださっているんです。不思議ですね。この不思議なほど、人間の感覚をこえてくる愛を与えてくださるのが神様。
この神様の愛を知っている生き方と知らない生き方は全然ちがいます。みなさんもこの探してくれているイエス様の愛を知ってください。知った生き方をしてくれることを日曜学校の先生全員がお祈りしています。おしまい。

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