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広告クリエィティブ職は聖書もわかりやすく語れるのか?その70。

普段広告のクリエィティブ業をしつつ、プロテスタントの教会でお子様にお話をさせていただいています。その原稿を公開するシリーズ。今回もヨブ記です。神様とサタンのイタズラに付き合わされるヨブ。どんどん理不尽な目に遭っていきます。皮膚病にもなり、そこに友達がやってきて、お前そんな頑固にならんと罪をみとめたらええねん、ってなってます。とにかくヨブのエネルギーが凄い。めちゃくちゃ喋る喋る。そのエネルギーの意味を考えてみます。そのエネルギーがヨブの命を輝かせているのではないか?というお話です。

ヨブ記 19章13節から22節
13:神は兄弟をわたしから遠ざけ知人を引き離した。 14:親族もわたしを見捨て友だちもわたしを忘れた。 15:わたしの家に身を寄せている男や女すら
わたしをよそ者と見なし、敵視する。 16:僕を呼んでも答えずわたしが彼に憐れみを乞わなければならない。 17:息は妻に嫌われ子供にも憎まれる。 18:幼子もわたしを拒みわたしが立ち上がると背を向ける。 19:親友のすべてに忌み嫌われ愛していた人々にも背かれてしまった。 20:骨は皮膚と肉とにすがりつき皮膚と歯ばかりになってわたしは生き延びている。 21:憐れんでくれ、わたしを憐れんでくれ神の手がわたしに触れたのだ。あなたたちはわたしの友ではないか。 22:なぜ、あなたたちまで神と一緒になってわたしを追い詰めるのか。肉を打つだけでは足りないのか。 23:どうかわたしの言葉が書き留められるように碑文として刻まれるように。 24:たがねで岩に刻まれ、鉛で黒々と記されいつまでも残るように。 25:わたしは知っているわたしを贖う方は生きておられついには塵の上に立たれるであろう。26:この皮膚が損なわれようともこの身をもってわたしは神を仰ぎ見るであろう。 27:このわたしが仰ぎ見るほかならぬこの目で見る。腹の底から焦がれ、はらわたは絶え入る。

Copyright: 日本聖書協会

<やる気はどこからくるのか?>
みなさんはやる気がでないときどうしていますか?テレビみたり、YouTubeみたりして気分転換しますかね?お菓子食べたり?なんか別のことしてたらやる気がでてきたりしますかね?
わたしはいろんなアイデアを考える仕事をしています。アイデア考える、やる気を出すにはどうしたらいいのか?っていろんな人が本に書いてます。ものを書く仕事をする人は、とにかく机に向かうことだと書いていました。当たり前ですよね。でも大人になっても結局やる気がでないというのは本当に悩みの種なんです。わたしの場合はコピー用紙を広げてなんか赤い、細いペンでなんか書き始めることをします。そうするとちょっといいこと思いついて、あーこれならやってみたいなあと思ったり、これが実現したら面白いだろうなあと思ってちょっとずつやる気が出てくるのを待つ感じです。もう47歳にもなってやる気がでないって、人間って一向に成長しないもんですよね。この自分の心、心からやる気が出てくる、それも自分ではコントロールできない、それが人間の面白い、不思議なところだなあと思います。

<どんどん酷い目に遭うヨブ>
今日の聖書の箇所、今日もヨブさんですが、ヨブさんのやる気がとても不思議です。先々週からヨブ記を読んでいます。
イスラエル人のある場所にヨブさんという人が住んでいました。「無垢な正しい人で、神を畏れ、悪を避けて生きていた。」ヨブさん。神様のところにサタンがやってきて、おたくのヨブさん、ちょっと試してみませんか?彼、恵まれているから神様を信じているだけであって、財産とか、家族とかがいなくなったら神様を呪うのと違いますか?と言ってきたんですね。で、神様は命だけは取らないという約束でサタンの好きなようにさせました、というお話しです。そっから先々週は財産と奥さん以外の家族が全員いなくなって、さらに先週はすごい皮膚病になってしまっしまいました。それでもヨブさんは決して神様を呪いませんでした。すごいですねえ。神様は幸せも与えてくださるんだから不幸もいただこう。というすごい言葉で神様を呪わずに、神様を信じ続けていました。それが先週までです。そこからだいぶ進んで今日が19章。この間に何があったかというとヨブさんの友達が登場して、ヨブさんにいろいろいやなこと言ってきます。なにを言ってきたかというと、ヨブさんさあ、こんなに悪いことが起こるってことはヨブさん、自分でなんか悪いうことしたんじゃないの?そうに決まってるよ。とっとと悪いことしましたーって言って謝っちゃいなよ、と。もしくはもうそんな神様、信じなけりゃいいじゃんと言ってきたわけです。それに対してヨブさんが、いやいや、ちがうちがう、と言い返す場面です。それがずーっと続いています。

<ヨブの反論と信仰告白>
そして今日読んだ箇所はヨブさんが言い返す場面です。13節から20節までずーっといかに悲惨な状態かが描かれています。友達もいなくなったし、僕にも無視されるし、奥さんにも子供にも嫌われるし、もうだれも相手をしてくれないと。本当に辛いですね。そして20節「骨は皮膚と肉にすがりつき、皮膚は歯ばかりになってわたしは生き延びている」と体も本当にボロボロです。そんな状況の中でもヨブさんは話しています。なぜかとてもエネルギーがあるんですよね。なぜかやる気に溢れてるんですね。どのやる気は怒り、怒るというやる気、まだ残ってるんです。この箇所を読んで一番感じるのはそこです。相変わらずようしゃべるヨブさん。何をしゃべっているのかというと21節「憐れんでくれ、憐れんでくれ、神の手がわたしに触れた、私の友ではないか、なぜあなたたちまで神と一緒になってわたしを追い詰めるのか。」と周りに向かってなんでなの!と怒っています。そりゃそうかもしれませんね。神様にいろいろ奪われてさらにまわりの人からも責められてどういうことやねん!とめっちゃ怒っています。そしてそのあとちょっと様子がかわります。25節「わたしは知っている私を贖う方は生きておられついには塵の上に立たれるだろう」と。私を贖う方、あがなうという言葉、難しいですが、私のことを救ってくれる、助けてくれる方、このヨブさんと神様の間をとりもってくれる、仲直りさせてくてる人が絶対にいるんだ!というんですね。よくこんな状態でそんなこと思えるなあと思うわけですが、ここでもヨブさんのエネルギー感じますよね。このヨブさんと神様の間をとりもってくれる方がかならずいるんだ、ということ、それを信じることがまさに信仰とよばれるものなんですね。そしてそれに続いてヨブさんはさらに26節「この皮膚がそこなわれようとも」これはもう死んだとしても、という意味だそうです、たとえ死んだとしてもわたしは神様を尊敬して感謝するでしょうとヨブさんはいうんですね。信じられませんね。こんな酷い目にあったのにまだ神様が存在することを信じて、さらに、尊敬して感謝するなんて・・・・と。

<何もないところに残るものとは?>
このヨブさんはいったいどういう状態のことを表しているんでしょうか?これは物語として語られていることから考えると何かを意味しているんですね。ヨブさんのこの状態、この世の中で持てるものを全部なくなってしまって、何にももっていない状態です。財産もないし、人間関係もないし、ないないない、なんにもない。何にもなくなった状態で人間が生きているということはどういうことなんだろうか?ということを教えてくれているんですね。何にも無くなった状態でできることといえば、なんなんでしょうか?
それは神様に語りかけること、神様に怒り、そして神さまに感謝するということなんですね。ヨブさんのこの状態、もう生きているだけ、なんです。なんにもできないんです。ただ生きているだけ。そんな状態で生きてる意味ってあるのかな?とおもってしまいがちです。でも、ヨブさんはやる気満々、エネルギーは失ってません。そしてそのエネルギーを友達にぶつけ、そして全力で神様にぶつけています。この状態でも命が輝いているなあと思います。

<生きてるってなんだろう?>
生きてるって感じですね。新約聖書の中にもザアカイさん、友達もだれもいないザアカイさんが、イエスさまに向かってエネルギーをぶつけていきました。イエスさまの話が聞きたいと木に登ったんですね。それにたいしてイエスさまは応えてくださいました。新約聖書の中にも病気の人が多くいます。その方々も、イエスさまにエネルギーをぶつけてきました。そして病気を癒してもらいました。この世界、この世の中的になにもない状態だとしても生きてる意味がある、ということをヨブさんは教えてくれています。ヨブさんがずっと喋ってる、神様にエネルギーをぶつける、生きる気まんまん。なにがなくても、神様にぶつかっていく。それが生きること。
今日、みなさんは教会に来て、聖書を読んでいます。まさに聖書に向かってエネルギーをぶつけている。なんで?どうして?と。それこそが生きてるってこと。命の使い道なんだということをヨブさんは教えてくれています。
 
 

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