遺架
カテゴリー分けなし、思いつきの話です。
家族のはなし
希死念慮のはなし
摂食障害
双極性障害
音楽を聴くのは心地よいです。 ひたすら歌詞を追いかけていると、フラッシュバックが止まるからです。 ミュージックを好む死神の気持ちがよく分かります。 主に、ある2組のアーティストをリピートしています。 片方は、同年代です。 片方は、ひと回り以上、年上です。 どちらも、同じくらい好きです。 交互に、繰り返し聴いています。 でも、少しだけ、抱く感情が異なるのです。 どちらのライブに何度か行ったことがあります。 ふた組とも、顔出しなし、テレビに出ないアーティストです。 同
いつも、人の顔色を窺ってしまいます。 相手の機嫌を損ねたら、この世の終わりだと思っているのです。 だから、人と話すとき、その人が私と話して気持ちよくなることを最優先に考えて、聞いて欲しそうなことを聞き、話したそうなことを「うん、そうだね」と否定せず聴き、 その人が話すことを適切な言葉に言い換えて、「あなたを理解していますよ」と態度で示すようにしています。 でもそうしていると、相手は気持ちよくなって満足げにして帰りますが、私には、 「あの人のことはたくさん聞いたけれど、自
先々月は、猛烈に死にたかった。 今月、なんか楽しい。 あまりにも躁鬱で、嫌になってしまう。 夏は調子が良い。にこにこする人になる。 ここ2年間、年末年始は病院のお世話になっている。 つまり、私の気分は天気に左右されている。 あまりにも単純で、嫌になってしまう。 別に、なんか楽しいことがあったとか、そういうわけじゃない。 ストレスが全然ないとか、そういうわけでもない。 双極性障害の研究者である前の主治医は、こう言っていた。 「もちろん、ストレスには左右されるけれど、
内側に蓄積した不満を、父に向かってぶつけるというわけにはいきませんでした。 財力のある父親に見捨てられたら、思うような人生が歩めなくなることを、私は理解していたからです。 嫁いびりに耐えかね、本気で離婚を考えていた母が、結局それに踏み切らなかったのは、やはり、お金のことがあったのだと思います。 母は、私たちが良質な教育を受けることを、何よりも願っていました。 それには父の存在が必要だったのです。 私はびくびくしていました。 平日の夜は休日は、父の機嫌を損ねることはしない
主治医はよく、「人間は感情の奴隷なんだよ。」と言います。 その通りだと思います。 感情に抗うというのは、なかなか難しいです。 楽しくて、ラクで、気持ち良い方に流される。 人間の摂理のように感じます。 双極性障害という、「感情」の障害を抱えている私なら、なおさらです。 例えば私は、ありえないくらい涙もろいです。 どれくらいかというと、ちょっと感動系のCMを見るだけで、涙が出てきます。 NHKのドキュメンタリーなんか見た日には、1日中泣いています。 ひとつ、大きな特徴
あの人は身長155㎝、体重41kgくらい。痩せすぎ。 この人はBMI21くらい。適正体重。 グレーのパンツスーツが似合うあなたは、ほどよく筋肉のついた美容体重。私はそれくらいがいい。素敵。 何でもするから、その身体、私のと交換してくんない? 今日はまっすぐ家に帰る。そう決めたはずなのに、駅から出てすぐのスーパーに足が向く。 野菜売り場。素通り。 冬なら吐きやすいみかんを買うけど、今日は売ってない。 特設コーナーを見る。今日は安売りのプリン。普段はチーズケーキだったり、
私は、踊れない人です。 高校生のとき、体育の時間で、「創作ダンス」なるものを披露しなければならなければなりませんでした。 同じチームの人たちが口にする、「見たら大体できる、っていうか、ノリ?」とは程遠いところにいた私は、センスの良い同級生がつくった4分弱の振り付けが、全く頭に入りませんでした。 めちゃくちゃに足を引っ張っていた自覚があったので、彼女たちが踊る映像を撮らせてもらい、自宅で練習することにしました。 これが、全く頭に入らない。 動画の左右と鏡の前に立つ自分
幼少期、父はとても無口で、いつも不機嫌そうでした。 仕事で上手くいかないことがあるようでした。 自らの妻のことを徹底的にいびる統合失調症の母親や、それをかばう父親との関係がこじれているようでした。 何か不満があるとイライラし、不機嫌な空気を周囲にまき散らしていました。 母と夜な夜な、大声で喧嘩していました。 自分は何もできない、しないくせに、母の家事に口を出すことがありました。 人の立場にたって考えるということを知らず、自分がしたいことだけをし、話したいことだけを話し、
人はなぜ、「書く」のでしょうか? 初めは、主治医に勧められたからです。 「やってみれば?」みたいな、軽い感じでした。 乗ってみることにしました。 だんだん、「自分の頭の中を言葉にする」という行為の心地よさに気づき、なぜだか、飽きっぽい私が、少しのあいだ続けられています。 (あと、サムネイルの画像をつくるという遊びがめちゃくちゃ楽しい、というのもあります。) 主治医の目には、そこまで見えていたのではないかと思います。 本当、意味分からんくらい、冴えている人です。 話
もともと食べることが大好きで、人生で痩せている時期というのはあまりないです。 兄や母は細身なのに、私は骨太、洋ナシ体型です。 高校時代は、肥満の一歩手前くらいでした。 女子校だったため、美人で細身の同級生と自分を比べることはありましたが、そこまで体型にコンプレックスを抱くことなく、のびのび過ごしていました。 でも、大学に入って、初めて異性の目にさらされたとき、 彼らは女の子をある程度、容姿や体型でジャッジしていることに気づきました。 「男並みにでかいよな」 「痩せたら
今まで、4人の精神科医と話をしたことがあります。 1人目は、町医者のおじさん。 2人目は、入院先の病院でお世話になった、女医さん。 3人目は、大きな病院で出会った、双極性障害の専門医。 4人目は、同じ病院に勤める、今の主治医。 どのお医者さんにも、キャラクターがあります。 もっと言えば、「治療方針」でしょうか。 薬の調整だけに注力する先生。 私の過去をざくざく掘って、仮説をたくさん立てる先生。 基本的に躁鬱の観点からまなざす先生。 未来のことに目を向けさせる先生。 同
10人弱の人間が、輪になって座っています。 年齢も職業も、様々です。 彼らは、本を読む人、つまり「読者」です。 ここは、ちょっと変わった「図書館」なのです。 そのうち、ひとりが話し始めます。 「司書」によって探し出され、その日貸し出されることになった、 「本」です。 「わたしは…………」 ちょっとした偶然で、ヒューマンライブラリーのことを知りました。 私はまだ、健常者でした。自分の内側にある問題について、気づくすべがなかった時期です。 そのときは、「読者」として参加
死にたさには、濃淡があるようです。 希死念慮は、美術の教科書に載っていた「色相環」みたいな、グラデーションで表現できるような気がします。 チープな死にたい 例えば、和紙みたいに裏が透けるほどぺらっぺらの「死にたい」。 昔の嫌なことがフラッシュバックしてきた瞬間、口をついて出てくる、「あぁ、死にたいな」という言葉です。 チープな死にたい、と呼べるかもしれません。 これの裏側には、特に含みがありません。奥行きがないのです。 深く考えず、ただ、不快な感情を和らげるために
「多様性」という言葉が、市民権を獲得しつつあります。 ジェンダー、障害、ルーツ。 いつもの自分とは違う立場にたって、マイノリティの人々の気持ちを想像しましょう。 そういう風潮が当たり前になってきました。 多数派が、想像力を働かせて、 少数派が暮らしやすくなるようにみんなが努力する社会。 とっても、美しいですね。 この考え方には、「世の中には、多数派と少数派という2つの種類の人間がいる」という前提があります。 言い換えれば、マイノリティとマジョリティの間にしっかりと境
私の身体は、ギプスでがちがちに固められています。 だから、足を前に踏み出すことができません。身動きがとれないのです。 そのギプスの名は、「恥」です。 例えば、こんなことがあります。 「え?自分もあてはまるぞ?」と感じる方もいると思います。 こういうことは、別にパーソナリティ障害でなくとも、生じます。 人間生きていれば、1度くらいは、「回避したい」という感情を抱いたことがあるはずだからです。 例えば、アルバイト先で、 自分のミスではなかったのに、店長にこっぴどく怒られ
エレベーターとエスカレーターの判別がつきません。 この話をすると、ぎょっとされます。もう慣れました。 でも、本当なのです。 もうちょっと正確に言います。 「エレベーター」というものと、「エスカレーター」という、人を運ぶという点で共通している、音が近い、でも確かに異なる2つのものが存在していることは知っています。 片方が自動で動く階段で、もう片方が吊り下げられた箱であることも理解しています。 でも、どっちがどっちか、いつまで経っても、私は憶えられないのです。 「エレ