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氷川神社、久伊豆神社、香取神社の分布からわかる“国”の成り立ち

私は、関西出身で、もうかれこれ20年近く関東に住んでいます。関西になくて関東にあるものの一つが氷川神社です。私は長い間、氷川神社は、関東一円に、特に河川の流域を中心に分布しているのかと思っていました。昨日、ふと気になって、Google mapで氷川神社の場所を検索して分かったのですが、全く関東全域などではなく、分布の中心は東京と埼玉に偏っていました。それよりも、特に千葉方面にはまったくないことがすごく不自然に感じました。さらに、「氷川神社 分布」と画像検索していると、下の地図を拾ってしまいました(私的には、えらいものを拾ってしまった感覚でした)。


こちらの図は、関東地方整備局が出しているパンフレットに載っているものです。氷川神社、久伊豆神社、香取神社の分布がぱっかり分かれているというものです。

そもそも氷川神社の由来は、『出雲風土記』でいう、斐伊川の上に立つ社、つまり出雲大社を指します。そう、斐伊川が氷川に変化したものです。祭神もスサノオノミコトと一致しています。ちなみに、須賀神社や鳶神社なども「須佐」、「素戔」が変化したもので、すべて、スサノオノミコトを祀り、氷川神社とは同じ系列です。

久伊豆神社の祭神はオオクニヌシノミコトです。スサノオノミコトの子孫筋にあたる神で、いわずと知れた出雲大社の祭神です。つまり、氷川神社と久伊豆神社は、出雲系という同系列の神様が時系列で繋がっています。

一方で香取神社の祭神は、フツヌシノオオカミで、国譲りのためにアマテラスオオミカミから派遣された神です。ちなみにこの神は『日本書紀』にしか登場せず、『古事記』には、フツヌシノオオカミの代わりに、タケミカヅチノオカミが登場します。実際の社は、タケミカヅチノオカミは鹿島神宮の祭神で、そして、そこに向き合うようにフツヌシノオオカミの香取神宮があります。


いずれにしても、タケミカヅチノオカミとフツヌシノオオカミは征服王朝の神です。

先程の神社の分布図を見てください。東から西に、利根川を越えて、香取神社の勢力が久伊豆神社の勢力を押し込んでいるように見えないでしょうか。

また、図を見つけたのですが(個人のブログから取りましたが出典は載っていませんでした)、こちらは征服王朝の専売特許ともいえる前方後円墳の分布図です。鹿島神宮、香取神宮を起点に見事に、香取神社の分布と重なっています


先程の関東地方整備局のパンプレットには「千葉県佐倉市の香取神社を本社とし」という説明がありました。先程の2柱は、鹿嶋市あたりに上陸し、鹿島神宮・香取神宮を本拠とし、佐倉市に陣を敷き、在来の民族を攻め立てていた様子が想像できます。ちなみに、『古事記』では、タケミカヅチノオカミが十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に立てて、オオクニヌシノミコトに国譲りを迫っています。また、フツヌシノオオカミの名も、刀剣を神格化させたものであるとされます。アマテラス軍と呼べばいいのでしょうか、力によって征服しようとしていたことは間違いなさそうです。と同時に、元荒川を挟んで対峙してる時点で、和睦が成立したようにも見えます。

事実上の初代天皇とされる崇神天皇の治世、天皇は天変地異や疫病に悩まされたといいます。ある夜、天皇の夢に、オオクニヌシノミコトの幸魂(サチミタマ)であるオオモノヌシノカミが現れ、自分を祀ったら疫病は鎮めようと言ったそうです。天皇はすぐに三輪山にオオモノヌシノカミを祀ったところ疫病はすぐに収まったそうです。これがもう一つの「国譲り」であったのかもしれません。

ここで、神社の3つの地域を、祭神と時代でもう一度整理したいと思います。スサノオノミコトは、京都の祇園祭や茅の輪くぐりといった蘇民将来の伝説にも登場する疫病そのもとといった性格をもつ荒ぶる神です。そのエネルギーや生々しさといったら縄文式土器のもつエネルギッシュで毒々しいデザインとイメージはぴったり重なりますです。オオクニヌシノミコトは大黒天とも習合しますが、稲穂を携えた、弥生時代を代表する稲作文化の象徴ともいえます。おそらく、2世紀~3世紀頃まで、元荒川あたりを境にして、西は縄文文化を色濃く残した人々、東は稲作文化を持った人々が、居住地域を「棲み分け」ていたのではないでしょうか。そこに、さらに東から、「降臨」してきた新しい文化が押し寄せてきたのです。

先程の「国譲り」は、弥生文化の「魂」(おそらく、原始神道)を新政権が引継ぐという条件で、政権の禅譲が行なわれました。それで、関東平野は、西から、縄文、弥生、大和王権というグラデーションをもって、民族・文化・信仰の棲み分けが出来上がったというわけです。

とまあ、ここまで想像を膨らませてきましたが、一方で、こんな話もあります。仏教伝来の時、時の天皇は自らが神道のトップであることを忘れて、蘇我氏に乗せられて、仏教伝来に肩入れしてしまいます。そこに待ったをかけたのが物部氏ですが、やがて蘇我氏らによって滅ぼされてしまいます。なぜ、天皇よりも物部氏が神道にこだわったかというのは謎であります。しかし、物部氏の祖先神であるニギハヤヒこそが、オオモノヌシノカミであるという説があります。弥生文化の「魂」を引き継ぐと言ったのが「国譲り」の条件ではなかったのかと、物部守屋は主張したということです。

付記:
私が子供の頃は、『古事記』や『日本書紀』といった神話は、文字通り「神話」でフィクションであると教えられてきました。戦前は事実であって、戦後はその反動で、「全部ウソ」だったわけです。しかし、ここ10年くらいでしょうか、古墳の形式、副葬品、青銅器や鉄器の使用、そしてそれらの位置関係から割り出されたネットワークなど、考古学の年代測定技術の発達とともに、神話が神話でなかったことが徐々に明らかになってきています。邪馬台国がどこにあったかもなども興味をそそる分野ですが、それ以上に、日本の3~4世紀頃、つまり、大和王権の成立というのは、古代史の大きなミッシングリンクです。アマテラスの存在など、10年先にはすべてが明らかになっているかもしれませんが。

追記(2024.2.21)

関裕二『神社が語る関東の古代民族』を読むと、神社の区分けの原因がよく分かりましたので、以下に記しておきます。

・武蔵国造は「出雲系」
13代成務天皇のとき、出雲臣一族のエタヒヒ(兄多毛比命)が武蔵国の国造に任命されたということです(そのために、東京・埼玉は、スサノヲや大国主命を祀った神社が多い)。
・鹿島神宮・香取神宮のファイティングポーズは、日高美国の蝦夷に向いていた
両社は元々は那賀国造系の神社で大国主命や少彦名命を祀っていました。しかし、藤原氏が接収したことで、対蝦夷(アイヌ民族)の最前線基地へと変遷を遂げます。その際に、国譲りの神である、フツヌシとタケミカヅチが分祀され現在に至ります。
 
藤原家の氏神は奈良の春日大社ですが、鹿島神宮とは「鹿」でつながっていたのですね。両社のある常陸国の国造は元々那賀氏であったということですが、那賀氏は物部氏の一族とされます。全国に前方後円墳を広げていったのは物部氏の氏族です。ここでもすっきりしました。
 
常陸国の勢力が古墳時代は物部氏、奈良時代以降は藤原氏に代わったことによる一種のねじれ現象があり、それが地域間の対立のように見えていたのですね。


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