[短編小説]晴れの日の移動教室にたどりつけない

 教壇の上の初老の草臥れたおじいちゃん先生は、滑舌が悪くて声が小さい。そして、教壇の下のガキ共は、理科室に並ぶなんとも言えない緑色の机の周囲に居着き密集していて五月蝿い。彼らはただ若いだけの若い声を、無知で鋭利な音を出し続けている。私の心臓の鼓動がは速まる一方で、身体の外の世界は意識が飛びそうなほど一秒一秒が重く遅い。先生は何十回と同じことを諭し続け、授業は進まない。先生が舐められるほど、同じ様に私の存在も着実に危うくなっていて、身体を紙やすりでゴシゴシと削られているように私は1コンマずつ無に近づいて行っている。先生が立つ教壇も同じようにゴシゴシと手動で削られているのだろうか。長い教師人生で築いてきたものはたった2.30センチの高さで、それさえも削られなければ成らないのだろうか。騒ぎ声は悲惨にも、今日まで教師という役割を選んできた先生の選択のすべてが間違いだったような感触をしっかりと1人残らず全員に植え付けていく。私は自分自身のその感覚に耐えられず、また顔を俯けた。クラスメイトは髪と肌の艶のみで、この世界を支配し続けている。


 前にいる美沙ちゃんは、安っぽくピカピカと加工された新しいキラめきが宿る厳かな筆箱から、魔法少女のような色ペンをカチャカチャと出して並べている。触れてしまいそうな距離にあるそれらは、間違って触ると強力な電流が流れそうに見えて、指先に残る怠い痺れの感触さえとても欲しい気持ちになった。きっと筆箱を閉めた後でも、ピンク色のランドセルの中でカチャカチャ同じ音をさせているのだろう。ポップな色味のペンたちが可憐に音を立てて煮詰まった、密閉された筆箱の中の甘い湿度は一体どんな味だろう。もったいないから、鼻息を殺しながら大切に大切に吸ってみたくなった。


 まるで切なくなってしまったかのように、私はそのひとつの憧れから目を離した。そして、余った目線で資料集の最初の方にある微生物の写真のページをみてみた。そこにいるミトコンドリアやゾウリムシは、私よりとても気持ち悪くて、私よりとても素晴らしかった。なぜなら彼らは紛れもなく、学問に、歴史に名を刻む革命生物達だったから。特別なににも秀でていない、ただクラスに馴染めないだけの私のよくある異端性は、これほど堂々と名前をとりあげられる筈もなく、資料集の端に名前が載ることもないまま絶滅していくのだろうという、悪い想像をした。私が唯一所属する、あの教室という環境ですら放たれることのない私の名前は、私と両親以外、この世で1番優先度の低い言葉に思えた。

 勇気を出してもう一度顔を上げても、さっきから5分も経っていない。私の鼓動が速いリズムを刻むほどに死へのビートの間隔も狭くなり、老いのスピードは加速していく。私はどんどん先生に近付いて行って、このスピード感のままもはや通り過ぎて行ってしまうような気持ちにさえなった。この60分でまた私の老いはどれほど鋭利に深まったのだろう。私は小さな丸椅子からつるりと滑り落ちてしまわないように、必死で慎重にその場所にしがみ付いている。


 それでも、わたしには儚い味方がいて。教室の窓を包む誰の目にも留まらない白いレースのカーテンと、制服の下に隠された綿の下着のちいさなリボンだけが、わたしの救いであり、わたし自身そのものであった。

 強い風がカーテンを靡かせて、何粒かの水滴が窓の外から斜めに差した。白いレースが、少しだけ濡れている。


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