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第九十話 戦争の無い国での果てしない戦争


民族の間で、国同士で、宗教を巡って、国境を争って、利害の衝突で、軍人の軽挙妄動によって、今でも世界各地で戦争が起きている。
アジアの東の端に、もう八十年近く戦争から遠ざかっている国が在った。
しかし、最近、この国では奇妙な戦争が起きている。この平和そのものの、一見、誰もが生命を危機に晒すことなく、のほほんと生きているように見える国にしても、実は結構苛烈な疑似戦争を幾つか潜り抜けてきているのだ。例えば受験戦争、交通戦争、派閥戦争、オートバイメーカー同士によるYH戦争などだ。そして新たに独立戦争が勃発しようとしていた。
この国では今でも家に籠城する者が一二〇万人以上居る。投降を呼びかける世間の声や開城を求める声にも頑として応えない。彼らは引き籠りと呼ばれていた。私がそのことを知ったのはひょんなことからだった。
私の家は父から受け継ぎ、かれこれ四十年近く住み続けている。家の近くも子供の頃は畑や田圃だった所が、いつの間にか建売の家で埋まるようになってきた。そんな我家の北隣の空き地にこの春先から家が建ち始めた。以前、駄菓子屋だった場所だ。重機で地面を慣らし、鉄筋工が型枠の間を行き来し、柱と梁が組まれると周囲を足場に囲われ、ブルーシートが掛けられた。どんな家が建つのか窺い知れなかったが、材木の香りに壁紙を貼るのに使われる接着剤の刺激臭がまじるようになった。そろそろ竣工なのだろう。
そう思っていた真夏の白い太陽がいつになく大きく見えた日、建て舞いをするために足場が取り払われ、家が姿を現した。
ある日、手土産を下げて隣の家を訪れた。
長くその土地で暮らしていこうと思うと、隣人との友好な関係は不可欠だ。
お隣さんは揃って五十歳代だろうか、ご夫婦で対応してくれた。
茶菓子をつまみながら暫くこの街の簡単な歴史や最近の様子、周辺の病院の評判や医者にまつわる噂、政党の力関係、ゴミ出しのルールや回覧板の回し方など四方山話で時間を潰した。一服した後、ご主人が新築の家の中を案内してくれた。しかし、一部屋だけ案内を避けた部屋があった。そして、どうして案内してくれなかったかを帰り際に説明してくれた。
「実は私たち夫婦には今年二七歳になる一人息子がおります。もう十年になりましょうか、世間で云う引き籠もりになってしまいました。医者にも診てもらい、いろいろな施設に相談にも行きました。私たちの育て方が悪かったのかさんざん悩みました。治療に腐心し、病院を奔走しましたが、何をやっても効き目はありません。そこで、私も早期退職した退職金と親からのまとまった遺産が入ったので、環境を変えようと転居することにしたのです。そしてこちらに引っ越してきたというわけです」
「でも、今日、息子さんはいらっしゃらなかったですね」
「いえ・・・、おりました。実は案内しなかったあの部屋で息子が寝起きしています。息子は運動不足と情緒不安定からくる過食で太ってしまったのです。このままのペースでいくとかなりの巨体になる危険性があります。将来玄関からの出入りが難しくなることを想定して、各部屋の窓を大きくとってあるのです。窓を大きくとると強度が不足します。壁や柱だけでは十分な強度が確保できないので、アルミの太いサッシが必要になります。一般住宅ではそこまで太いサッシはなく、大工さんに工場などに使うサッシを探してきてもらい、サイズを調整し、黒く塗装しました」
俯き加減に説明してくれた。
隣家の息子さんは幸いにもその後YouTuberとして自立したが、目敏い男がこの一二〇万人という規模の持つ意味に覚醒した。一二〇万人といえば、バーレーンやキプロスの人口に匹敵し、ルクセンブルクやマカオ、フィージー、ブータンより多い。
「これだけの数が揃えば、引き籠りの人間だけで一国が作れるのではないか」
そう考えたのだ。
そこでインターネットを通じて一二〇万人に呼び掛け、独立を画策した。
独立にはアメリカ合衆国間の独立戦争を顧みるまでもなく、決まって宗主国による強固な抵抗がつきものだ。しかし、彼らには籠城技術と悲惨で過酷な心の葛藤から培ったタフマインドという磨き抜かれた武器があった。
これまで何も発信してこなかった彼らは、社会に対してもこれと云った意見など無いだろうとばかり考えられていた。
とんでもなかった。彼らは語らなかっただけで、語るべきものが無かったわけではない。言葉にならない想いを拾い集めてひとつの言葉にまとめ上げる作業をしているうちに、自分たちに過酷に当たる社会に対する敵意と憎しみがふつふつと湧いてきた。その想いが自分一人のものでないと知ると、敵愾心が燃え滾り、巨大な怒りとなった。戦いの火蓋が切って落とされるのも時間の問題だった。
目敏い男はSNSで引き籠りたちに呼び掛けた。
「私たちは好き好んで自ら引き籠ったわけではない。虚妄な人間関係にほとほと疲れ果て、止む無く、一時安息を貪っているだけなのだ。にも拘らず、世間は私たちに引き籠りなどと云うレッテルを貼り、一括りにして社会のお荷物扱いしようとしている。この積年の恨みを晴らそう。その季は今だ」
この声が埋もれていた声を掘り起こした。
「まてまて、そう早まるな。軽挙妄動は戒めよ」
「いや、止めてくれるな、最早堪忍袋の緒も切れた」
「急いては事を仕損じる。暫し機を待とう」
等々、決起を促す声と諫める声が巷間渦巻いた。
しかし、幾ら自制を促しても一旦火の着いた憤怒の心を冷ますのは難しかった。
この事態を目の当たりにして、世間は彼らの絶望の深さに驚いた。
「何と云うことか」
やがてザワザワと犇めく音が地の底から湧いてきた。
数万の引き籠りたちが鬨の声を挙げつつ押し寄せてくる。
季ここに至り、積年の引き籠りで陶冶した技術、意欲、忍耐力、これらを備えた彼らが立ち上がり勝利の日を迎えるのも時間の問題だ。
新しい時代に誕生する国は、従来のように領土の分割でも宗教による対立からでもなかった。獅子身中の虫が羽化し、自らの身を食い破って産まれ出ようとしていた。

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