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詩を手書きするお話

今回は詩を手書きする理由について話してみたいと思います。

……と書き出してみて思ったのですが、前回の創作ノートの使い分けについてのお話ですが、読み返してみると半分くらいまでノートは何をもって一冊なのか、みたいな話をしていますね。汗。しかも結論は書いていないという。
けれどもそういうものかもしれないなと思いました。
創作、つまり小説と言いますかフィクションに関するお話をするというのは、それ自体生きた物語になって語る必要があるのかなと。
ハウツー的な、実用的な記事にはなりづらいのかもと。もちろん創作に使うノートの使い分けに関してわたしの実際の実情を素直に書いたつもりでした。
素直に、簡潔に書いた結果が語りの様相を帯びるという、そういう魔力が創作に関する限り働くのかなという気づきになった次第です。

さて、詩を手書きすることについてお話したいなと。
これもまた、こういうメリットがあるので手書きをお勧めします、といった書き方にはならない気がしますが……。
わたしは学生時代ですら詩をキーボードで書いたことはありませんでした。
学校ではMacBookを無料で貸し出していたのですが、それを使って何かを書いたということは一度もないですね。レポートすら書きませんでした。汗。
詩と小説が未分化な状態からのスタートでした。
散文詩という言葉は知っていたので、行で分けるか云々というのは詩か否かとは無関係と考えていました。
……というところで書いていたのですけれど、書き進めながらけっきょく何が書きたいのかな、というところで空中分解のまま放置するという選択をしました。
そうやって書いた詩なのかなんだか分からないものを冊子にまとめたりもしました。
ノートも買えない貧乏学生だったので、もうどうやって授業を受けていたんだと。配られたレジュメの空白に板書も詩も書いていましたね。……ちょっと背伸びをしていましたね。
紙がないときはキーボードで、それもフォントが気に入っていたブログの編集画面で書いていたということは一応ありましたけれど、それはノーカウントということで。

そしてあの頃はというと全てが空中分解でした。
レジュメに詩を書き込んでしかも失くしてしまうという、それ自体が何かを象徴していたような状況でした。時には書いたものをプリントアウトしてそれを手直しし続けたりもしました。
……考えてみると、常に何かの上から書いていたんですよね。
活字と活字の間を手書きで埋めていくのが好きかもしれません。
それは既に書かれているものに対して、内容ではなく物理的に干渉していくことと言いますか。
レジュメの間を文字で埋めることが、空中分解の八方ふさがりの状況の中で何かに参加していくための方法になっていたというか。

今でも日頃から手帳を使っているのですが、デコレーションというかゴテゴテと汚していきながら使うのが好みだったりします。
何かを貼り付けたり、もともと印刷されている文字の上にレイアウトを無視して文字を書いたりですとか。
そうやってぐちゃぐちゃに紙面を汚していく愉悦があるのですね。

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