そういう人でありたい

この度は令和6年能登半島地震におかれまして被災された皆様にお見舞い申し上げます。



連休に、それも元旦に思いもよらぬ災害が発生し毎日悲しい知らせを耳にしない日はありません。

私自身も東日本大震災で被災した経験があり、今更ながら感謝の気持ちが沸いたためペン(キーボード?)を取りました。

2011年、当時はまだ中学生でした。始業式が終わり明日から春休み。  
さてこれから毎日遊ぶか、といつもの日常。
3月11日 14時46分にマグニチュード9.0、世界的に見ても二番目に大きな地震が発生しました。
津波は地球を二週半したと言われています。
沿岸部の津波被害、当時は停電でそれを知ったのは数日後でした。
津波もさることながら私たちの地域では原発事故のほうが深刻でした。
一時的に避難したのは隣県の新潟県です。

様々な不安がある中、阿賀野市の大きな体育館での避難所生活が始まりました。
そこでお世話になった阿賀野市の職員の皆さま、地域の皆さま、ボランティア活動の皆さまにはとても感謝しています。
新潟は地震が比較的多い印象で、被災経験からか体育館の設備、食料や毛布の備蓄は今思うに完璧なものでした。

避難所ではよく低体温症が深刻になりがちですが、ものすごく暖かく広い体育館を瞬時に温めることが出来る暖房器具(子供ながらに驚いたのですが天井にとても大きな器具が付いていた)がありました。

食事も初日から一日に三食を十分な量いただくことが出来ていました。
当時体育館には福島県全土から避難してきたおよそ200人はいたでしょうか。その分の食事を市の職員の方たちが毎回用意してくださるのです。

気付けば体育館の隅にはパソコンが10台ほど並び、いつでも誰でもアクセスできるような体制が一瞬で整いました。
経験から、情報が何よりも大事だと知っているからです。

環境を整えるスピードは驚く程のもので、被災地だったからこそのマニュアルが存在するのだと思います。
災害や有事に於いて情報と行動を起こすスピードというのは何よりも大事だと感じました。

そのうちに噂で駆け付けた近隣住民の方が体育館にちらほら。
小さな子供がいる家庭を中心に声を掛けているようでした。
「家の隣に空き家がある。家賃なんかいらないから目途が立つまでいつまでも住んでいいのよ。」
「小さな赤ちゃんのお尻がかぶれたら大変だから家でお風呂に入ってほしい。」
「何か必要なものはないですか?持ってきます。」
「間もなく仕事を引退しようとしていたのですが、今回の地震でもう少し続けようと思いました。そのお金を赤十字に寄付します。」という方もいらっしゃいました。

また、設けられた掲示板には市に寄せられたものでしょうか。
【空き家あり。すぐに住めます!】と連絡先が書かれた用紙が大変な数張り出されていました。

私自身も慣れない避難生活で体調を崩してしまい近くの小児科にお世話になりました。
女医さんのあまりにも優しい口調にいろんな不安から泣いてしまいましたが、
「ずっと続く訳じゃないのよ。いつか必ず終わるからね。」
と声を掛けていただき感動から「ありがとうございます」と言い更に泣きました。
女医さんの口調も震えているようでした。
言葉の力は偉大です。
いつか近くにいる人が悲しい時、つらい時に最良の言葉を選び掛けられる人でありたいと思いました。



ー 帰省した娘2人が倒壊した梁の下敷きで亡くなってしまい、ご両親は無事でした。
おかあさんはあまりにショックで何もできないのでおとうさんだけで家の片付けをしているとテレビで観ました。
今回の能登地震でも毎日心が悲しいです。
無力な自分にもです。
被災した方たちは更に絶望を感じていることでしょう。


人生はびっくりするくらい残酷です。
神様はいません。神は自分自身です。
泣いても何も変わらないし、始まりも終わりもありません。
今はまだ難しいと思いますが、もう前進する以外ないのです。
とても辛いことですが今までを自ら切り捨て、生きる知恵で生活を再建していくのです。

”復興”です。

一度衰えたものが再び盛んに、衰える前より盛んになることだと私は思っています。
災害が起きた地域では、素晴らしい子供が育つそうです。
羽生結弦や大谷翔平が正にそうです。
数々の偉業に生きる勇気が貰えます。

最後に、恵まれている人は恵まれない人の為に力を使うべきです。
そのために恵まれているのだと思います。




ーN-






        










 
 
  

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