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還る

 よく晴れているため散歩に出ると、いつの間にか近所のお婆さんの家が取り壊されていることに気がついた。我が家を出てほんの数秒のところにある家だったのに、解体されていることにもお婆さんがいなくなっていることにも気がつかなかった。更地だった。土しかない更地だった。お婆さんの住む家の下は、こんな風に土だったのかと思った。
 よくよく考えればわたしがまだ小さな子どもだった二十年前から、あのお婆さんはずっとお婆さんだった。単に、容姿が昔からこれまでずっとこれ以上「お婆さん」にならないくらいお婆さんらしかった、という話ではない。歩き方も、顔の皺も、銭湯に行くのにタオルを頭にのっけている仕草も、洗濯したばかりで濡れた下着を平気でガードレールに干してしまうようなところも、声をかけると「いつも声をかけてくれてありがとうねえ」と大袈裟なくらい喜んでくれるところも。変わったのは関係性だけだった。歳を重ねるごとに、声をかけてからわたしのことをわたしだと認識するのに時間がかかるようになり、とうとう一分ほど誰だか思い出してもらえなかったときに、わたしはこわくなった。もう声をかけても思い出してもらえないのかもしれないとおもったら、声がかけられなくなった。声をかけなければ、お婆さんはわたしを誰だか忘れたままだった。すれ違っても、気づかれなかった。つらかった。お婆さんは外出しなくなった。わたしは忘れた。そして家が壊されたことにも気がつかなかった。ひどく悲しい。更地の上に立っていたはずの家の姿の、輪郭がおぼろげに浮かぶ。お婆さんはどこにいるのだろう。
 歩き始めると、天気予報では冬の冷え込みが予想されていたが、おもっていたよりも暖かかった。直射日光を受けてアスファルトが、温まっているのか冷えているのかわからない。わたしが歩いている道に土などはまったくなく、歩くたびに靴が音をたてることもない。デコボコした点字ブロックのうえを歩いてみるが、やはり温度も音もわからないし、靴底が変形していく姿がわずかに足裏をくすぐるだけだ。気づいたときには流し込まれていたアスファルトのうえに二本脚、まっすぐに伸びるその影、何にも、感じない。秋と冬の狭間で人間は、アスファルトとともにモノだった。もうすぐ、駅が見える。
 あてもなく歩いてきたから自然に最寄り駅まで出てきてしまって、定期もポケットに昨日から入ったままだったので、そのままするりと改札を抜けた。どちらの方面の電車にのろうか、考えることもなく乗り込んだ。定期圏内の駅まで行く。なんだかいやに、お金を使いたくない気分だった。
 電車は空いていたが座席は空いておらず、わたしはドア近くの壁にもたれかかった。もたれかかって、体重が脚にかかっていないとカロリーは消費されないのだろうかとふとおもい、どうせ立っているのならと姿勢を正してつり革を掴むとちょうど目線の先に犬がいた。最初はカサブタかとおもったらそれは犬の鼻で、前に立っているおばさんのバッグのなかから、ひょいと犬が顔を出しているのだった。マルチーズだかチワワだか、わたしにはわからないが、ひくひくと鼻を、カサブタのようにカサカサと動かして、わたしはそれをおもいきりはがしてしまいたい衝動に駆られた。乗客はみな犬に気づかない。犬はつぶらな瞳でこちらをみつめて、飼い主は異国語で友人らしきおばさんと会話をしている。犬はこんなに生き物らしく生きているのに、鼻だけはモノで、しかも日本語を喋るでもなく犬語で吠えるでもなく、ただ黙ってバッグのなかにおしこまれたままだ。なにかどうしようもない、恐怖を感じた。犬が首を動かしながら時折こちらを見つめてくるたびに、わたしは少し目線を外してつり革を握りしめる。ぬるい、べっとりとした、指紋だらけのつり革の感触。電車の悲鳴。わたしは一言も声を発することができなかった。犬は最後まで黙った。ひょっとしたらわたしも犬も、中身が空洞なのかもしれなかった。
『すみません、降りまーす』
 終点だからみな降りるというのに入り口付近の人々を手で押しのけながらおりていったおじさんが、ホームに影を落とさないで歩く。わたしはホームに影を落として、犬のように歩く。一歩を踏み出すたびに視界が不規則に揺れ、ホームの保つ電気の不吉な明るさが、わたしの影を掬って舐めているのが見える。
 こうして駅の中を歩いていると、ばったりと友人に会うような気がしてならない。いや、友人に偶然に会いたいという気がしてならない。すれ違う人々の顔を、友人ではないのかと凝視していると、人の顔が脳の中で飽和していくのを感じた。わたしは今すこし寂しい気分で、友人と談笑でもして気分を晴らしたいと考えている。それがわかる。知らない人々の顔を凝視していると、それがわかる。人は犬のようにカサブタみたいな鼻を持つわけでもなく、土のように今はなき家の姿を思い出させてくれるわけでもなく、ただわたしとおんなじように、身体といういれもののなかでもたもたと何かをしている。
『わたしたちは動物です』
 わたしたちは動くモノです。囁くように、誰かの声がわたしの唇から漏れでてゆく。どうしてみなさも自分が、モノではないような顔をして歩いているのか、そもそも顔とは何か、平べったかったり色が濃かったり薄かったり、顔自体がモノの象徴であり顔あるものはすべてモノだ、影を落としても落とさなくても土の上を歩いても歩かなくてもみな等しくモノだ、そうです、われわれは、ものなので、あります。
『なんだか気持ちが悪くなってきた』
 なんだか気持ちが悪くなってきたので、わたしは駅を出てすぐに人がいない方向に向かった。「映画館からするポップコーンのにおいが男女を発情させます」。意識が濁ってくる。
 人がいない方向にとぼとぼと歩いて、駅のホームの抱える暗さから遠く離れるとようやく、犬は犬らしく人は人らしくなっていた。相変わらず人間が人間だ。細い道にみっちりと敷き詰められた黄色い点字ブロックをたどれば路面電車と同じ方面へ。歩道が狭くても車道が広いから大通り。通りの名前を聞かれても答えられません。太陽の場所を見ても時間がわかりません。「わたしは動物ではないので」。
 わけもわからず歩いていたら結局自分の通っている大学に着いてしまった。ここにはなんにもない。誰かに会いたいときにはきまって友人は誰もいないし、誰にも会いたくないときに限って友人から話しかけられる場所だ。奇跡みたいに仲良さげに喋っている学生の波が太陽を逃れて建物に入っていくところを見ると、冷たい空洞がすぐそこに屹立している気配まで漂ってきた。
 講堂が破壊されていた。大きな大きな講堂だった。わたしは入学式のときたった一回ここに入っただけだったけれど、ある日突然破壊が始まって、いくらなんでもこれには気がついた。土がでていた。この前まで剥き出しだった鉄骨もなくなり、地面からは土が生えていた。土。広大な土。掘り起こされる前からそこに繁殖していた土。講堂はできればずっとそこで息絶えてほしい。講堂は、破壊される前からずっとそこで息絶えていた。土のほうこそそこで生きていたのだ。
 ふと空気を吸い込んだらとてつもなく死にたい気分で、振り返ると早くも太陽が沈み始めていて、悲しい。建物に逃げようと振り返るとそこには土だ。土に逃げよう。そうだ、土に逃げよう。
 わたしは広大に生きている土たちの真ん中でひとり埋められている自分の姿を想像した。植物のように根を張ることもなければ、建物のように屹立するわけでもなく、モノのような顔をひっつけてそこに埋まっている。夕日に照らされて、モノが地球に隔たれてゆくから、わたしはそこで死ぬのだ。

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