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(ネタバレ有)「ゴジラ-1.0」感想:「ゴジラ」ではなく戦争映画。に近い

 読んでいただきありがとうございます。
「ゴジラ-1.0」を観てきたので、適当に感想を述べたいと思います。ネタバレが含まれているので注意してください。私は偏った考え方を持っている人間ですので、全く見当違いなことを書いている可能性もあります。当てにはしないでください。
 映画に関する情報は事前に何も調べず、また過去作との比較をしてみたかったので、1954年の映画と、2016年のシンゴジラ、それからハリウッドの2作を観た状態で映画館に行きました。


①全体を通しての印象など

 総評としては、見所もあるけれど、全体としては中途半端で不完全燃焼、といった所でしょうか。途中で飽きる時間がある、くらいの感覚です。
 私は特撮が特別好きな人間ではありませんが、見たかったものと実際に見たもののギャップに少し戸惑ってしまいました。
 


②ストーリー・シナリオの印象

 今回の「ゴジラ」のポイントは、①特定の人間にフォーカスが当てられたドラマが映画の中心にあること、②国や軍隊などの大きな組織が登場しないこと、③ゴジラの倒し方、という2点だと思います。
 
 まず①の話です。2時間の映画の中でゴジラが映っているのは、感覚で4分の一もないくらい。残りは元特攻隊員の主人公とその周辺の話が殆どです。
 監督が山崎貴さんであること、一般向けに映画が作られていることを鑑みれば事前に分かることだったのかもしれませんが、映画を見終えた後の感覚としては戦争をテーマにした人間ドラマ、という印象のが強く、ゴジラの方がかなり薄いです。
 それではドラマの方は良くできているのかというと、正直微妙です。要は山崎貴監督の「らしさ」が全面に出てきており、「あーこれね」といった感覚、悪く言えば陳腐でした。
 
 次に②の話です。今作でゴジラに対抗するのは、海軍を中心とした旧日本軍です。従来のような国や国連といった大規模な組織は出てきません。あくまで民間の組織、いうなれば義勇軍です。
 劇中のゴジラ襲来が1947年なので日本政府は国の立て直しに必死であり、アメリカはソ連との緊張から大規模な軍事行動を起こしにくい。故に組織としては既に解体されていた旧日本軍に白羽の矢が立った、ということのようです。
 また今までの「ゴジラ」に出てくる人間は、ゴジラへ対処することへの職責だったり、研究者のような特別な人間だったり、想像の難しい心理を抱いていることもあったので、理解しやすかったです。

 最後に③の話。本来は一番の肝と言ってもよい、ゴジラの倒し方です。私もこれが一番気になって映画を見に行ったのですが、何とも言えないですね。SFのような特殊な兵器を登場させず、可能な限りリアリティを追求した方策には、監督のこだわりを感じさせられました。


③ちょっとだけ文句

 今回のゴジラはシナリオの都合により違和感を感じさせられる点が多数ありました。
 まず主人公です。死ねなかった元特攻隊員として設定されているから分かるように、最後はゴジラに捨て身の攻撃、特攻を仕掛け、それが決め手となってゴジラは死ぬ(と劇中では思われている)のですが、正直、これがヤケにしか見えません。動機がよく分からないのです。
 後ろめたさは感じているが、特攻に行かなかったことに罪悪感はさほど感じていなそう。特攻は軍による強制という認識で、周囲の人も死ななかったことを責める様子はほとんどありません。寧ろ強く気に病んでいるのは大戸島でゴジラに襲われる防衛隊を見殺しにしたことで、これについては明らかなサバイバーズギルトがあります。とはいっても後の機雷によるゴジラ足止めの際には、仇だとゴジラを恨んだり、かたき討ちに臨む姿勢は見られないのですが…。
 明確な動機になっていると思われるのは銀座襲撃の際の、実質的な妻(戦後のゴタゴタで赤子を連れて家に転がり込んできた)の死(実際には生きている)です。しかし、これで特攻に繋がるというのは少しおかしいです。自責の念と復讐心がチグハグなつながり方を起こしているようにしか見えません。幼い子供がおり、その母親が死んでしまってすぐの状況で、子を隣のおばさんに預けて自分も死にに行く、という発想に至るでしょうか。
 違和感に輪をかけているのが戦闘機の脱出システムです。戦闘機が見つかった当初は死ぬという意思が強かったのに、なぜ死ぬ→生きるという心変わりが起こったのか。大戸島の生き残りである整備士から「生きろ」という思いを告げられからなのか? 子どもがいるからか?奥さんの「生きなさい」という言葉を思い出したからなのか? 関連する描写があまりないので推測するしかないのですが、ストーリーの根幹となる重要なポイントだけに不満が残ります。

 それからゴジラです。今回のゴジラの役割は一体何だったのか。過去作を参考にすると、1954年の初代では水爆実験の被害者、人間の活動により環境破壊への罰の具現化のような存在でした。「シンゴジラ」では詳しい説明がないものの、テーマとしては「災害」及び「放射能汚染」の要素が大きく含まれていると思われます。東日本大震災を思い出した方も多かったのではないでしょうか。災害対策に国や国連が取り組むというのはストーリーとして理解できますしね。
 またハリウッドのゴジラは神のような存在として扱われています。必ずしも人間の脅威ではなく、地球の安定を司る神で、映画は神話のような表現、ストーリーとなっています。
 
 それでは「-1.0」のゴジラは何を象徴していたのか。私の印象としては、端的に言えば何ものでもありません。重要な役割を与えられていない脇役なのです。設定だけ見れば恐らく初代を踏襲しているものと思われますが、では放射線に関する問題が話の中心になるかと言えば、そのようなことはありません。放射線計測のシーンや影響を不安視する言葉、光線発射後のキノコ雲など、各所では描写されているのですが、それらが主要人物に対しては何ら影響を与えていない。ゴジラという危機に対処して、それがうまくいって喜んで、終わりです。よく言えば、主人公の動機付け役です。
 
 私程度が気付いていることですから、ゴジラの役割のなさについて監督が気付いていなかったわけがありません。それでも描写を入れることができなかったのは、ストーリーの中心が「人間ドラマ」と「戦争」と「贖罪」だからです。

 ゴジラは人間がもたらした厄災ですが、戦争は国同士の争いです。国の命令によって悲惨な経験をした主人公に、無理矢理ゴジラを繋げているように見える。本来関わりのないものを繋げようとするから、ストーリーの各所で矛盾や違和感を感じさせる点が生じてしまっているように思えます。

 他に細かな不満を挙げると、人間ドラマのテンポが悪い所、などでしょうか。シナリオの都合により纏められた人たちがドラマの中心で、ゴジラと直接的な関わりのないストーリ―が長いです。「早く、ゴジラを見せてよ!」と悶々としてしまう時間もありました。
 出てきたゴジラも、前半は激しく動いていたのに、後半になるにつれどんどん動きが小さくなっていってしまったのが残念でした。


④戦争映画として見た場合

 見方を変えて、戦争映画として「ゴジラ-1.0」を見た場合、どのような評価をすればよいのでしょうか。また監督が伝えたかったことは何なのでしょうか。
 戦争批判がこの映画に込められているのだとすれば、元特攻隊員に再び死に向かわせるようなシナリオにしないと思います。彼は生き残ってしまったことを気に病んではいますが、その存在は特攻隊という攻撃方法を生み出してしまった日本という国の被害者として扱われるべきだと思います。それでもゴジラに特攻したのは個人的な後悔によるもので、直接的な戦争批判とは結び付きません。
 映画に込められているメッセージとして強いのは、敗戦を招いてしまった、いわば国を守れなかった旧日本軍の反省と、せめてもの矜持、といった要素であると思います。ゴジラ討伐の作戦説明を学者が行っているシーンの「誰一人として死なせない」というセリフは人命軽視の傾向が非常に強かった日本軍の反省として挙げられるでしょう。ただ、それを伝えたかったのだとしても特攻隊員が主人公に選ぶ必要はなかったのでないか、と思ってしまいますが…。


⑤最後に

 批判ばかりになってしまいましたが、全体としては全く悪い映画ではないとおもいます。一般向けに作られた映画であること、それから「ゴジラ」が中心ではなく、あくまで戦争映画であるという理解をしています。
 他にも感想をまとめている方はいらっしゃると思うので、参考にそれらも拝見させていただきたいと思います。見直したくなったら、また映画館に足を運んで観ようと思います。
 

 いつにも増して、駄文を失礼いたしました。考察の問題点等ありましたら、教えていただけると幸いです。
 

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