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絵で考えることを言語化する

トレーニングのために、こうして書いているわけです。
ゆる言語学ラジオのビジュアルシンカー(視覚思考者)についての3本が非常に面白かったのをきっかけに。

 動画内のエピソードや本の診断ベースで、おそらく図でなく絵画の方の視覚思考者のようです。色々腑に落ちることが多い。
 好きな映像作品ほど説明が下手で、物を探す時は脳内でビデオ再生してる。一目瞭然と思うシーンや差異に説明を要する人がいて驚いたり、整列された英単語帳が全く頭に入らないためフォントと位置関係で覚えられるよう鬼気迫ったウォールアートのような単語帳を作ったり。OneNoteのフォントが謎に変わっちゃうバグは作業効率を大きく落とすのだけれど、それでも手書きとタイプが共存できて、罫線関係なくペタペタコンテンツ作れるのが欠かせなくて。

 とはいえ、文章を読むのも特別苦手意識はない。それでも、基本的に情景描写が細かいものが好きで、それがないと集中力が切れやすく記憶にも残りにくい。説明書は基本図しか見ない(IKEAの説明書がベスト)。学校の勉強でも、ちゃんと勉強をしていないと、教科書のどの場所に情報があったかだけを覚えているあるある。
 一方、耳から情報を入れるのがとても苦手なところがある。よってポッドキャストやオーディオブックがなかなかインプットの手段として使えない。めちゃくちゃメモをしないとほとんど残らない。

 こうした特性はあるにしろ、誰かとコミュニケーションをとるには、これらを考慮しつつ結局はアウトプットの手段をなんにせよトレーニングしないといけないところがある。って分かっているのにずっと怠けてきた。ことに最近になってやっと気付いて焦っている。色んな習い事や趣味を増やしがちなのは、「新しいことに挑戦するっていいよね」と言われるがそういうことではなく、単に、筆を選び続けている悪筆家、そこそこのレベルで満足して本当の努力から逃げ続けているに過ぎない。文章を書くのもそう。本当は絵を描くのが一番楽しいし時間を忘れる。それでも自分の思うままに自由に描くにはもっと技術が、そのための量が足りてない。技術が表現を超える域を体験してみたい。写真も映像的な表現として使っているけれども、技術的なところがなかなか覚えられない。ダンスも、こうありたい像はある、けれど体型的なものだったりそもそも体作りがなっていなかったり。音楽は修行中。また手が動かなくなるから鍵盤をさわりに行かなくちゃ。頭の理解と身体の理解はどうしても時差がある。

 それでもなお、この複数のアウトプットを少しずつかじっている状態が、相乗効果やオリジナリティを生む可能性も信じている。多くのインプットが視覚的なものを通過するのであれば、そこをどうアウトプットにつなげられるか。ビジュアルを言語化するというのがまずは基礎として一番必要なことかもしれない。
 ということで、鑑賞・読書記録をその辺りに重点を置いて増やしていこうと今後の方針が決まったかもしれない。


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