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AIを授業で活用するための3つのステップ

GIGAGIGA 2024終了しましたので、登壇させていただいた際の内容を(有料イベントだったので)サラッと。

私のお題はサムネの通りで「AIを授業で活用するための3つのステップ」でした。今回、かなり固い話にふってしまったのですが、その3つというのがこれです。

順にふり返っていきましょう。

①教師としての基礎的な指導力の確立

AIの登場によって「いつ、どこで、誰が、誰から、何を、どうやって」学ぶかが全てガチッと決められている学校は、その多くの要素が揺さぶられつつあります。そんな中でも変わらず重要なのは「誰が、何を」学ぶか、ということでしょう。

もちろん、我々は「子供が、自分の興味から選んだことを学ぶ」ことを願っています。しかし、それは簡単なことではありません。それを実現するためには、この3つが必要でしょう。

②が「何のこっちゃ」と思われるかもしれませんが、イメージとしてはこういうことです。

子どもたちは自分が選んだ学ぶ対象に何の手がかりもなく向かえるわけではありません。各教科の授業で手にした「教科の見方・考え方」がそのためのツールとなります。ということは、普段の授業で「教科の見方・考え方」をはたらかせる学習が実現できていなければダメでしょう、ということです。

そういう授業ができて、手にした見方・考え方をツールに自分の選んだ対象に向かえる。そんな環境を作れる教師であるためには、やはり学級経営力や授業力が備わっていなければなりません。ですから、AIを授業で使いたかったらまずはそうした基本的な力を備えなければダメでしょう? と思うわけです。

②生成AIの活用が教科の目的達成に効果をもたらすような授業の構想力

ここは「こういう授業しなくちゃダメですよ」ということを恥ずかしげもなく自分の実践から話したのでした。ということでリンクだけで省略。

③自身の授業実践を常に批判的に捉え直す覚悟

ここは最新の実践の話を。今、コニカミノルタ社のtomoLinksの生成AI学習支援機能を使わせていただいているのですが、それを活用した「児童自身が生成AIを操作する実践」です。」

まずは「見立てる」という説明文を読みます。教科書にいくつか載っている課題を考えながら「筆者の主張は?」という問いに迫っていきます。その答にたどり着いたところで、AIに聞いてみます。そうすると、これ授業でやったのと(当然のことながら)同じ答が出てくるわけです。

そこで私から児童に問います。「AIに聞けばすぐに答が返ってくるのに、どうして勉強しなければならないのだろう?」と。児童はグループで話し合いながら、「こうじゃないか」「ああじゃないか」というのを箇条書きのメモにしていきます。

この箇条書きのメモをAIに放り込ませるわけですね。そうすると見事な意見文が生成されます。生成された意見文を読み、必要なら修正を加えて提出してね、とやったらどうなったか。ほとんどの児童が軽微な修正だけで提出してきました。AIのサポートをありがたく受け取っちゃったわけですね。

これで終わりにするわけではなく、この後、この「なぜありがたく受け取っちゃったのか」「ありがたく受け取っちゃっていいのか」という辺りをこれからの授業で考えてはいくわけですが、やはり単発の授業としてはダメでしょう。そういう失敗をちゃんと受け止めていかないとダメですよ、という話です。

今に生きる恩師の教え

ということで、「AIを授業で活用するための3つのステップ」は、

  1. 教師としての基礎的な指導力の確立

  2. 生成AIの活用が教科の目的達成に効果をもたらすような授業の構想力

  3. 自身の授業実践を常に批判的に捉え直す覚悟

となるわけですが、これ「生成AI」じゃなくて「ICT」でも同じだと思います。そして、これっていかにもICT批判派が言いそうなことではないでしょうか。そんなことを今回、なぜ敢えて言ったか。そういうことを言われても仕方のない隙をICT推進派が自ら作っているのではないか、と危惧しているからです。

正直なところ、最近目にする「このツールを使ったらこんな簡単に授業ができました!」「このツールを使うのが最先端です!」という実践のアウトプットの中には眉をひそめたくなるものが少なくありません。

「ツールの話はともかく、あなたのその授業で児童はどんな見方・考え方をはたらかせたのですか。」「その授業であなたは児童にどんな資質能力を身に着けさせたいと考え、それはどの程度、実現することができたのですか」と問い質したくなるときがしばしばあります。

アウトプットすることは大切です。しかし、パッと見た目は格好良くても中身の伴わない実践をアウトプットされたらICT批判派を勢いづけるだけです。それでは意味がないでしょう? というようなことを考える私の恩師、亡き沼野一男先生は著書「情報化社会と教師の仕事」の中で次のように書かれています。

ニューメディアの導入が「変えることのできない」ことだとすれば、私たち教師は「機器にはできないが、人間にはできる指導とは何か」という問いを改めて自分に問いかけなければならないであろう。また、そのことができるようになるために努力することが必要になる。
この意味では社会の情報化が進むこと、もっと狭い意味ではニューメディアが学習指導に利用されるようになることは、人間教師にとっては一つの挑戦である。しかし、この挑戦が激しければ激しいだけ、「よい学習指導とは何か」という問いを、その目的についても方法についても真剣に問おうとする教師の数は増えるのではないか。私が期待するのは、このことである。

沼野一男(1986). 『情報化社会と教師の仕事』 国土社

「ニューメディア」のところを「ICT」と置き換えれば、「生成AI」と置き換えれば、これは現代にそのまま当てはまります。

ハリボテみたいな実践の話はいりません。
「AIにはできないが、人間にはできる指導とは何か」
「よい学習指導とは何か」
そういったことを真剣に考えていきましょうよ。

と、かなり固い話に終止してGIGAGIG2024での講演を終えたのでした。もちろん「『そんな話を聞きたかったんじゃなかったんだけどな…』と思われた方、文句は鈴谷さんに言いましょう」と逃げ口上を言うのも忘れずに。


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