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人を責めるのはもうやめよう

年明け、内密出産をめぐる報道を見聞きするたびに、わたしは内心ハラハラしていました。女性を責めるような風潮が湧き上がるのではないかと不安だったからです。体裁が整わない状況で妊娠することに対して、日本の社会は批判的です。新聞や雑誌の論説やコメンテーターも口を揃えて「生まれてくる赤ちゃんに罪はない」と言います。それでは、妊娠してしまった、あるいはそのまま出産に至ってしまった母親は?母親の落ち度に矛先が向かえば、激しい批判が巻き起こっても不思議ではありません。

幸運なことに、私の心配は杞憂に終わりました。今回の内密出産に関しては、世論はおおむね好意的だったのです。その理由について、発表から3ヶ月後の通信社によるインタビューで、慈恵病院の蓮田院長がするどい指摘をしています。

第一例が親から虐待され、交際相手から暴力を受け孤立した未成年で「かわいそうな女の子と乳児」と報道された面も大きい。

時事ドットコム 2022年4月8日 国内初の内密出産、慈恵病院の試み【政界WEB】

許されるのは「かわいそう」だから?

この指摘の裏を返せば、彼女の「かわいそう」な側面があまり報道されなかったら、世間は彼女を愚かで無責任な若い女性としてバッシングしたかもしれないということを意味します。実際、2007年に慈恵病院が「こうのとりのゆりかご」の取り組みを始めた際には、時の首相が「養育放棄を助長する」と不快感を示し、世論も批判に傾きました。この不快感の正体とは何でしょうか?子どもは実の母親が育てるものという規範から外れたこと、それ自体への不快感はあるでしょう。しかしそれだけでなく、こうのとりのゆりかごという受け皿を用意することで、規範から外れた女性を助けることへの不快感があったとは言えないでしょうか?「生んだ責任があるのだから、偏見にさらされようと、経済的に困窮しようと、自分で育てるべきだ。」恐ろしく加罰的ですが、こうのとりのゆりかごをめぐって、こうした声がインターネットを中心に散見されたのは事実です。「落ち度のある人は罰を受けて当然」という考え方だと、免責され助けを得るためには「やむを得ない事情」が必要になってしまいます。だから、内密出産第一例を肯定するには、彼女の被害者としての側面、同情の余地が不可欠だったのだろうと思います。

報道する側に身をおいた経験から、わたしにも思い当たることがあります。過去にテレビ局で情報番組を担当していたとき、貧困に陥ったシングルマザーを支援する行政の取り組みを紹介したことがありました。そのときには、視聴者の反感を買わないように、細心の注意を払う必要がありました。弱い立場の人たちの苦境を紹介すると、必ず、自己責任だ、助けてもらうのはズルい、甘えだといった批判が寄せられるためです。例えば「妊娠して高校を中退した」「離婚した」といった事実があると、「本人の落ち度なのだから、非正規・低賃金の仕事にしかつけなくても仕方ない」「支援を受ける資格などない」と言われてしまいます。批判を最小限に留め、取材協力者を守るために私たちがしたことといえば、夫のDVや地域の産業の衰退による雇用の悪化など、本人の責任でない事情を強調し「かわいそう」だと思ってもらうことでした。

今なら自分たちのやり方が間違っていたことがわかります。問われるべきは、落ち度がある人は苦しんで当然という発想のおかしさであって、どのくらいかわいそうなら助けてもよいのかという問題ではないからです。同情を買うことで批判をそらすというロジックに乗ってしまうと、落ち度のある人は罰していいという考え方を助長してしまいます。ですから、メディアはストーリーの伝え方を変える必要があります。そのうえで、落ち度を根拠に誰かを罰する/許すという考え方そのものについて問い直すときが来ているとも感じます。

赤ちゃんには罪も責任もない

前述のインタビューで、蓮田院長は、次のように言葉を続けています。究極的なケースを想定した、かなり思い切った発言です。

今後、内密出産を目指す女性は不倫や売春のケースもあり得る。そういった母親の責任を糾弾されかねない場合、社会が許容できるかどうか。

時事ドットコム 2022年4月8日 国内初の内密出産、慈恵病院の試み【政界WEB】

慈恵病院は、「内密出産はそもそも乳児の無事な出生と健やかな発育を願っている。乳児には罪も責任もなく、生命を授かったいきさつが不倫や売春などでも、社会が乳児の将来のために協力しようという空気が醸成されればいい」として、母親にいかなる事情があっても受け入れる意向を示しています。確かに、生まれてくる命が等しく大切ならば、その母親が助けに値するかどうかを判断する必要はありません。

判断する必要はない不要としたうえで、ここでわたしはあえてしつこく、母親の責任を追求したくなる気持ちを正当化できるか考えてみたいと思います。

女子大生は本当に身勝手だったのか

孤立出産、関連して内密出産を論じる時によく引き合いに出されるのが、2020年、就職活動で上京した女子大生が空港のトイレで赤ちゃんを産み落とし、その子を殺害して公園に埋めたとして逮捕された事件です。女子大生が不自由ない家庭の出身だったこと、デリヘルでのバイトによって妊娠したこと、就職活動の邪魔だという理由で新生児を殺害したことなどが報じられ、大きな非難が巻き起こりました。同年の冬のYahoo! の特集記事において、公式コメンテーターで防犯アドバイザー/犯罪予知アナリストの京師美佳氏が「(この事件は)身勝手な殺人ですが、妊娠に気づかず突然の出産で動揺して病院に相談をしたり、レイプによる望まない妊娠での出産などは別」とコメントを寄せています。女子大生のケースを身勝手なケースと断定し、許容の対象外であるという心象を示しています。

しかし後日、新たな事情が報道されました。取り調べ、公判の過程で、元女子大生が「境界知能」(知能指数が平均される部分と障害とされる部分の境目に当たる)であることが判明したのです。そのほか、別の専門家が発達症の可能性を指摘していること、本人の性自認がアセクシャル(男女のどちらにも性的感情を覚えない)であり、デリヘルで働いたのは女性である自分を認識するためだったことなどが明らかになりました。これらについては、慈恵病院の取り組みを長く取材しているノンフィクションライター、三宅玲子さんの記事が詳しく、それを読むと当初の報道とは違った人物像が浮かび上がってきます。境界知能が見過ごされたまま、勉強のつまづきを母になじられ続け、自尊心が低いまま育った少女の姿です。この記事を読んで、元女子大生に同情し、責める気持ちになれないと感じる人もいるかもしれません。

つまり、どんな報道も完全に客観的ではいられず、どの情報を目にするかで印象が変わってしまうということです。報道から得られる情報だけではその人の本当の事情がわからない以上、そもそも第三者が「同情の余地」を判断することは不可能です。また、表面的な言動だけで、その人を判断するのも危険なことかもしれません。仮に、品位に欠ける服装、自分勝手な発言、不倫や売春など、受け入れがたい要素があったとしても、背後に障害や生育環境などの問題があるかもしれません。どこまでが個人の責任で、どこまでが構造的な問題なのか。医療や社会福祉、法律の専門家が然るべき手順で見極め、プロセスを重ねてもようやく暫定的な結論を下せるかどうか、という事柄です。社会が、乏しい材料をもとに、どこまでなら許せるか、許すか許さないか、という線引きをすることは不毛なだけでなく、とても傲慢なことなのではないかと思います。

さらに、激しいバッシングや加罰的な風潮が、歓迎されない妊娠をした女性の恐怖を増幅し、孤立出産への悪循環を招くのではないかとも懸念しています。孤立出産に追い込まれる女性の多くは、責められることを恐れて周囲に妊娠を打ち明けるのをためらった人たちだといいます。彼女たちが、ネットなどにあふれる非難の声を目にして、助けを求めるのを止めてしまったら、危険にさらされる命が増えてしまいます。彼女たちの命を脅かす権利は誰にもないと、わたしは思います。

過去と未来、どちらを向こう?

婚前交渉、婚外恋愛、セックスワークによる妊娠を心情的にどのくらい許容できるか、人によって違うのは当然です。しかし、個人として批判的な心情を抱くことと、相手を罰する/許す資格があるように感じることは別問題です。その女性の過去の行動をジャッジする発想から離れて、内密出産を、未来に向けた前向きな選択として受け止めることはできないでしょうか?友人・髙崎順子さんは、フランスの匿名出産の仕組みを解説する記事のなかで、1990年に児童精神科医のキャサリン・ボネが、匿名出産を選択する女性に関して行った心理学研究を紹介しています。

匿名出産を選ぶ女性は、子供時代に虐待を受けたケースが多く、そのトラウマから自分自身も子供を虐待してしまう可能性を恐れ、より適正に子供を育てるであろう養親に託す。匿名出産は愛情行為としての選択なのだと、本書内でボネは主張している。

プレジデントオンライン 2022年3月29日
「全国どの病院でも名前を明かさず出産できる」
200年以上前に"匿名出産"を制度化したフランスの"すごい仕組み" 

ここで注目すべきは、自分で育てないという選択が「より適正に子供を育てるため」という未来に向けた前向きな選択であるということです。被虐待歴という過去があれば、虐待の恐れを理由に内密出産を許されるということではなく、匿名出産が権利として保証されている環境では、女性が赤ちゃんと自分にとってベターな選択ができる、未来に苦しむ人を減らすことができるという考え方です。フランスが200年以上かけてこの制度を整備してきたという事実は、過去の非に基づいて人に罰を与えた先に幸せな未来があるのか、という問いに社会が向き合ってきたということでもあります。日本ではどうでしょうか?内密出産への関心の高まりは、未来への希望に条件をつけるのをやめようというメッセージのようにも感じます。


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