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女性と「選択する権利」—アメリカ「中絶禁止」論争から考えたこと

※5月14日加筆修正しました。

先日、内密出産の話題をきっかけに、意図しない妊娠と、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツ(生殖と性に関する健康と権利)について改めて調べ、考える機会がありました。適切な性教育、女性主体の避妊、そして、妊娠した女性が状況に関わらずケアが受けられるようにすること—これらがいかに大切かを実感すると同時に、その難しさを思い知らされる気がしました。意図せぬ妊娠をした女性に対する「ケア」が、出産を支援すること(内密出産/匿名出産、養子縁組、育児補助など)とは限らず、多くの場合、妊娠を終わらせること(人工妊娠中絶)だからです。

基本的人権、だけどタブー

人工妊娠中絶について、公衆衛生の見解は明快です。WHO(世界保健機関)は、中絶を「社会に普及している、保健のための介入」と位置づけたうえで、①安全かつ②適切なタイミングで、③費用的にまかなえ、④敬意を持って提供されることを、欠くべからざる公衆衛生の問題であり、人権問題であると明示しています。実際、女性のリプロダクティブ・ヘルス・ライツを専門とするシンクタンクGuttmacher Instituteの調査では、中絶に関する法律や制度が整備された国では中絶が減少する傾向であることが認められており、中絶も含めたリプロダクティブ・ヘルス・ライツ施策を普及させることを推奨しています。

それでも、命は大切だという前提に立てば、中絶には、モラル的なタブーの感覚がつきまといます。例えば日本では例年およそ15万件の中絶が行われていますが、その経験がおおっぴらに話されることはほとんどありません。中絶は望ましくないことだからです。中絶は良いことか、悪いことかと聞かれたら、良いことだと答える人は少数派でしょう。

中絶=悪ならば、いっそ法律で禁じてはどうかと問われたら、どうでしょうか?すんなりと賛成できるでしょうか?法が定めるべきことなのか?個人の判断に委ねられるべきなのか?禁止にすんなり賛成する人もいるかもしれません。一方で、禁止まではとためらう人もいるかもしれません。中絶が望ましくないことは承知のうえで、すべての妊娠が合意にもとづくとは限らず、すべての妊娠が歓迎されるとも限らない現実に、多くの人が気づいているからです。

「中絶禁止」で揺れるアメリカ

この葛藤が、社会を二分する問題に発展しているのがアメリカです。アメリカでは、1973年、最高裁が「ロー対ウェイド」判決で女性が中絶を選ぶ権利は憲法(修正14条、プライバシーの権利)で保障されているとし、胎児が子宮外で生育可能となる妊娠23週前後までの中絶を容認しています。しかし、保守的な南部の州などで、聖書の教えを言葉通り厳格に守るキリスト教福音主義(エヴァンジェリカル)の人たちを中心に中絶反対の声が根強く、半世紀にわたって、政治的な論争になっていました。

決定的な出来事は、2018年に、ミシシッピ州で、妊娠15週より後の人工妊娠中絶を禁じる州法が可決されたことです。合衆国憲法との整合性が問題視され、最高裁で、合憲性をめぐる審理が2021年12月1日に始まりました。現在の最高裁判事は6人対3人で保守派優勢ゆえ、ロー対ウェイド判決が覆されるのではないかと指摘されていました。そして今年5月2日、保守派のアリート判事が書いたとされる判決の草案がリークされ、その予測が現実になりつつあることが明らかになったのです。
(参考になる記事をいくつか→Newsweek日本版, ハフポスト日本版など)

中絶禁止の法案が合憲、つまり、中絶が女性の権利ではなく法律で規制してよい事柄であると認められた場合、なにが起こるのでしょうか?家族計画を支援する非営利団体 Parenthoodは、50州のうち26州で中絶が禁止の方向に規制強化され、3600万人の女性が影響を受ける見込みと試算しています。

特に影響を受けるのが、貧しい女性、特にシングルの女性、有色人種の女性です。アメリカでは有給の産休・育休や公的な子育て支援の制度が希薄なため、生活が立ち行かなくなることが必至だからです。そうした女性が危険な非合法中絶で健康を損なったり、命を落とす恐れも指摘されています。ジェンダー平等を掲げる非営利ニュースThe 19thは、アリート判事の書いた判決の草案が、女性が社会で置かれている地位・経済状態について、誤った理解に基づいていると分析、批判しています。

しかし、多くの州が禁止に向けて法制化を進めています。なかでも、極端な規制を進めているのがテキサス州です。2021年9月に施行された中絶規制法によると、妊娠6週目以降の中絶は認められません。6週目までに妊娠に気づく女性は少ないため、実質的な完全禁止を目指すものと言えます。レイプや近親相姦による例外も認められていません。さらに当事者だけでなく、中絶手術を受けるのを手助けした人を一般市民が民事で告発することを報奨金付きで推奨しています。この法律に対しても、最高裁へ差し止め請求がなされましたが、棄却されています。

生命vs個人の選択?

中絶反対派は「プロ・ライフ」(生命擁護派)を標榜しています。これを単純に反転させると「アンチ・ライフ」(反生命派)あるいは「プロ・デス」(死擁護派)にもなりかねず、非常に反論しにくいロジックですが、中絶の権利を擁護する人たちは自ら「プロ・チョイス」(選択擁護派)と名乗り、対抗しています。

規制に反対する抗議活動の様子などでは「My body, my choice(わたしの身体、わたしの選択)」「Don't control over my body(わたしの身体を支配しないで)」というメッセージを頻繁に目にします。

プロ・ライフという主張に対して、「個人の選択」を打ち出して反論するとはどういうことでしょうか?一例に、30年以上にわたってリプロダクティブ・ヘルス・ライツを提唱している法律家でジャーナリスト、Kathryn Kolbertがどのように訴えているか、紹介してみたいと思います。彼女はロー対ウェイド判決が覆されることを予期し、去年から積極的に寄稿スピーチを展開していた人物です。

Kolbert 氏は、中絶反対派の主張が、宗教、胎児の権利、そして女性の健康の3つに集約されるとしたうえで、それぞれが本当に根拠になりうるのか検証していきます。まず宗教。世界中には様々な宗教があり、それぞれ中絶に対する考えが異なることを指摘して、反対派の指す宗教(※福音主義などに代表されるキリスト教右派)は数ある信仰のひとつにすぎず、信教の自由が保証されている国で、他の人たちに特定の宗教的解釈を押し付けているにすぎないと指摘します。

続いて胎児の権利について。ここで彼女が挙げるのは、アメリカの乳児死亡率の高さ(※CDCによると2019年のデータでは1000人あたり5.6人で先進国最悪レベル)です。胎児の権利を謳っているにもかかわらず、プロライフの政治家たちが、胎児が生まれた後に公的なサポートを提供していない矛盾に言及し、その真意を疑問視します。

そして女性の健康についても、中絶手術の安全性はすでに医学的に確立されている事実を示し、中絶は女性の健康を害するのは事実ではないことを明かしています。つまり、彼女は、プロ・ライフの論理に合理性が欠けていることを確認したうえで、プロ・ライフの人たちが判決を覆そうとする目的は別のところにあると訴えています。

In my view, what we're really talking about, this fixation on abortion by opponents, those people who want to ban abortion, is all about controlling women. And women are unable to operate, to be equal participants in our society, if we cannot control whether, when and with whom we have children. We cannot exercise the fundamental human right to make decisions about our bodies and our destinies.

わたしの見解では、私たちが話し合っていることの本質はなにかと言えば、中絶を禁止したい人たちによる中絶への執着が、とにかく女性をコントロールしようとするものだということです。私たちが、子どもを持つか、いつ誰と持つかを自分で決められなければ、何かを運営したり、社会に平等に参加したりできなくなる。わたしたち自身の身体と運命について決断を下すという基本的な人権が行使できなくなるということなんです。(※訳は筆者)

TedWomen2021
The end of Roe v. Wade -- and what comes next for reproductive freedom

プロ・チョイスが守ろうとしているもの

Kolbert氏の訴えをよくよく聞いていると、彼女が見据えているのが「法律の奥にある含意」だということがわかります。人生を左右する事柄について、当事者である女性自身が判断を下すのか、あるいはもっと大きな力によってあらかじめ決められていて、それが望む結果でなくても受け入れるしかないのか。

道徳的に望ましくないとされていることが争点となったとき、葛藤は大きくなります。例えば離婚。かつてはひどくタブー視されていましたし、今でも避けられるなら避けたいことでしょう。しかし、法律で離婚を禁じれば、妻が夫から肉体的・精神的・経済的DVを受けていたとしても、自分の意志で逃れることはできません。さらに言えば、教育を受ける権利、働く権利、自分名義の財産を持つ権利などが伴わなければ、離婚できてもシングルで行きていくことは圧倒的に難しくなってしまいます。

これは決して仮想の話ではなく、およそ150年前までは、上記の権利は女性のものではありませんでした。法律で女性の権利を保証するということは、女性をひとりの人としてカウントするということであり、生殖と性にまつわる権利もその一部だということです。法の名のもとに、女性の基本的人権が損なわれてはならない、主張の重さを痛切に感じます。

性の問題は、改めて向き合うと、本音と建前、理想と実態、ジェンダー格差、不都合な現実が次々と浮き彫りになって、語りにくい問題だとしみじみ思います。しかし、黙っていると、不都合は不都合なまま温存され、まず不利な立場の人たちにしわ寄せが行き、いつか自分の身にもはね返ってきます。だから活動家の人たちは声を上げるのであり、その勇気は詳細に値すると思います。WHOのような国際機関が、女性の生殖と性にまつわる健康と権利への支持を表明することの意味も、改めて重く受け止めたいと考えます。

語られていること、語られていないこと

選択と権利について考えさせられる一方で、アメリカの中絶禁止法案にまつわる一連の報道を見ていて、不思議に思うことが多々あります。ひとつは、「自由の国」アメリカで、なぜリプロダクティブ・ヘルス・ライツについては規制しようという力が強く働くのかということ。もうひとつは、中絶を規制する法律ばかりが議論され、意図しない妊娠で困っている女性や、困窮する母子を支援する法律や制度について、あまり議論がなされていない(ようにみえる)ことです。

社会のなかで女性の権利、あるいは基本的人権を保証するとは、具体的にどういうことなのか。語られていること、語られていないことの両方を念頭に置いて、引き続き理解を深め、調べてみたいと思います。


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