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勉強って希望だ

この文章は、過去に別のところで書いたブログの転載です。(※一部加筆修正あり)2021年の9月、勉強への愛があふれて勢いで書きました。これを書いて心が固まったのか(?)この直後、会社に辞意を伝え、大学院出願のためのエッセイを書き始めたのでした。

わたし、気づくとここ2、3年、勉強ばかりしている?

新卒でテレビ局に就職して働き続け、20年を超えてしまった。そんな45歳の今、自分でも不思議なくらい勉強にはまっている。正直めちゃくちゃ楽しい。なぜそんなふうに思うのか、ちょっとだけ振り返って書き残しておきたい。

映像製作者の国際会議でNYを訪れたのをきっかけに、英語の勉強をやり直し始めたのが、2018年の夏。最初は純粋に語学の学習だったものが、英語で発信されるニュースや記事や映像に触れるにつれ、知りたいこと、考えたいことが増えていき、翌年にはアメリカに滞在してデザイン思考を学ぶことになった。帰国しても熱は冷めず、コロナ禍の2020年春はオンラインの大学院でジャーナリズムを学び、さらにこの秋からはジェンダーやセクシュアリティ、人間の権利について新しいコースを取ろうとしている。

日本企業に雇われている限りは、深夜にオンラインで授業に参加し、土日にひたすら課題に追われてまで、デザイン思考やフェミニズムを学ぶ必要はない。仕事に直結した知識でもない。

けれども内側から迫ってくるように欲求が湧いて、本を読むのも、講義に出るのも止められない。もっと知りたい、考えたいという気持ちが止まらない。わたしはどうして勉強しているんだろう?学ぶことは、わたしに何を与えてくれるんだろう?

囚人が教えてくれた、「学ぶとなにが変わるのか」

そんなことを考えていた折、ネットフリックスで偶然観たドキュメンタリーにはっとさせられた。タイトルは College behind bars。服役中、刑務所の中で大学の学位取得を目指す青年たちを複数年にわたって追ったシリーズで、初出は2019年、アメリカの公共放送PBSで放送されて話題となった作品。(※現在ネットフリックスは配信終了。DVDは入手可)ときどき、人種問題や犯罪解決もののドキュメンタリーを観ていたから、アルゴリズムが働いてAIが勧めてくれたのだと思う。ちょっとした好奇心で見始めたのだけれど、引き込まれてしまって4話全て一度に見ずにはいられなかった。

舞台はNYにあるセキュリティーレベルの高い刑務所。ごく一握りの受刑者たちが、リベラルアーツの大学による学士プログラムに参加を許される。刑務所内の小さな教室で、一般の学部生と同じ内容の授業を受け、単位の取得を目指す。10代後半から二十歳そこそこで収監され、10年を超える刑期を務める青年たちが、歴史や文学、外国語、数学や科学といった教養科目を学ぶ。おぼつかない様子で詩を朗読したり、ギリシャ哲学について議論したり、中国語を発音したり、黒板に長い数式を書いて数学の問題を解いたり。教授も手加減せず、学生たちも物おじしないで食らいついていく、その様子は、ときに微笑ましいながらも真剣そのもので、学ぶことの喜びに満ち溢れている。

番組は数人の学生へのインタビューを軸に進んでいくのだが、彼らの語りの質がどんどん進化していくのがわかる。生い立ち、家族のこと、刑務所での生活。どのように自身を取り巻く環境を見ていたのか、どのような感情を抱いていたのか、時を経てそれがどう変化したのか。はっきりと、自分の言葉で語ってくれる。深い洞察と表現力にドキリとさせられる。

これが、言葉を持つということか。

ひとりの教授は、高等教育の意味を「自分自身を知り、自分と社会の関係を知ること」だと述べていた。そして初めて、自分が社会に貢献できる方法を見つけられると。これが、職業訓練と学びの違いかもしれない。自分の中に視点を培うこと、それを伝える術を身につけること、それを可能にするのが教養であり教育なのかもしれない。

学生/受刑者の青年たちの多くは有色人種で、NYの最も貧しく荒廃したコミュニティの出身だ。家庭も学校も十分に機能しているとは言い難い環境で育ち、自分たちが不条理な状況に置かれていることはわかっていても、自分たちがなぜそのような境遇に追いやられているのかまでは知るに至らない。日々を生き延びるうちに犯罪に巻き込まれ、自ら負のスパイラルの一部になってしまう。しかし、教育によって視点を得て、既存の社会制度が自分たちのコミュニティにどう作用しているのかを学んだのが彼らだ。そこから、不平等な「既定路線」を覆す一歩がスタートする。実際、後日談では、多くの卒業生が、刑事司法制度改革や有色人種の若者たちの支援活動に身を投じていることが紹介されている。

学びによって目が開かれるという意味で、わたしも彼らの仲間と言えるかもしれない、と思った。わたしは日本人女性で、アフリカ系アメリカ人でもなければ、貧困地域の出身でもないけれど、不平等が既定路線であることの理不尽さを身を以て知っている。日本は世界有数のジェンダー差別国だ。表向きは男女平等が謳われているけれど、女性というだけで、有能でも学校に入れてもらえなかったり、仕事に就けなかったりする。常に控えめに、誰かを支え、世話をする立場を求められる。勇気を出して発言すれば感情的だと言われて(本当にそうかは別問題)取り合ってもらえない。容姿についてとやかく言われる。母親になってもならなくても責められる。それでも、嫌われないように感じよく振る舞い続けないといけない。さもないと、攻撃されて排斥されてしまう。

理不尽な世の中、うまく切り抜ければOKなわけじゃない

20年と少し前、大学生のわたしは、理不尽な世の中に気づいてはいた。この社会を生き延びて、自分なりの人生を築こうとするなら、男性の同級生より努力しないといけない。さらに、その努力や成果が目についてはいけなくて、障壁などないかのようにするりとかわす才覚を磨かないといけないとも思っていた。自分では選べないもの — いつ、どこで、何人として、どの性に生まれるか、健常に生まれるか — によって不利益を被ることに悔しさを覚えつつ、個人の努力でかわし、乗り切るしかないと思い込んでいた。

実際、一部のとても有能な女性たちは、不愉快な態度を取られても神対応でスルーし、通常の人の何倍も努力して圧倒的な成績や業績をあげる。キャリアだけでなく、伝統的な女性の幸せ — 結婚して家庭を築くこと — も成し遂げ、子育てと仕事を両立してスーパーマザーぶりを発揮する人もいる。外見にも気を配り、360度どこから見ても立派な女性が、お手本として紹介される。

そんなお手本ほどうまくやれなかったけれど、テレビ局に就職して20年近く、ときに腹立たしいことに見て見ぬふりをして、ときに自分を殺して、なんとかやってきた。はたから見れば、相当上手く行っているように映ったと思う。だけど、本当にこのままでいいのか、どこかモヤモヤしていた。そしてひとたび、心の中でふたをしていた違和感に気づいてしまったら、もう放っておけなくなる。わたしにとっては、2018年のNYがその一歩だった。世界中から会議に集まった、映像業界で働く女性たち。自分よりもずっと年上の女性も、若い女性も、誰もがずっと堂々としていた。はっきりと意見を述べていた。バラエティ豊かな肌の色、体型、サイズの女性がいて、思い思いに装い、存在を主張していた。彼女たちの中にいると、「日本の働く女」のひな型から解放された気持ちになった。そして自分も彼女たちの側に行きたいと思った。「あなたはどう思う?」と意見を求められる人間。答えられる人間。意見を言わずにあいまいな笑みを浮かべる存在ではいたくなかった。

帰国してすぐ、わたしが勉強を再開したときの最初の目標は、世界の共通言語で彼女たちと対等に議論ができることだった。そんなチャンスがもう一度あるかわからなかったけど、とにかく英語に取り掛かることにした。手始めにTOEIC用のドリルを買って文法を復習し、通勤電車の中で単語を覚えた。そのうちに、英語でニュースを見たり、論説を読んだりするようになった。するとそこでは、個人の物語、社会的な出来事、歴史について、圧倒的な物語が展開されていて、#me tooも#Black Lives Matterも、遠い外国の出来事ではなく自分の問題になっていった。流行りの曲やラップのフレーズまでもが深い意味を持って響いてきた。その後、カリフォルニア、シリコンバレーの大学で学ぶチャンスに恵まれた。革新的な企業や文化が生まれる街の大学では、どんな問題も解決できるという強い意志、そのために仕組みをデザインするという発想が脈々と生きていて、そこで過ごすうちに、自分の心が解放されていくのがわかった。テック企業の最先端の土地ながら、自分たちのアルゴリズムが倫理的に正しいかどうかを批判的に検証する精神的タフさにも触発された。そして帰国後の2020年、コロナ禍で世界中がオンラインの世界に移行したとき、わたしはNYのジャーナリズム大学院に通うことにした。そこでは、多様化する社会のニッチなニーズに応えるジャーナリズムが提唱されていて、実際に、既に小さなメディアを個人で運営しているクラスメイトもいた。わたしが知っているメディアとは対極的だけれど、なんて刺激的なんだろう。

自分にも何かできるかも。それって希望だ。

自分の中でも変化が起きた。相変わらず理不尽なことに遭遇するけれども、「世の中はこんなもの」とあきらめて、かわしてやりすごすことがなくなった。小さな会話ひとつでも、いいねひとつでも、意見を持って関わる限り、無力ではないと感じるようになった。ささやかなことでも、自分にも何かできるかもしれないと感じるのは、未来に希望を持って生きられるのは、幸せなことだと気づいた。

教育は、漠然とした思いに言葉を与えてくれるものなのだと思う。その過程で、自分自身を知り、社会を知り、自分と社会の関係を知る必要がある。自分の本心を見失ったとき、自分より先に言葉を持った人たちの言葉が助けになる。その言葉を通じて、本当は何をしたいか、何ができるか、見つける過程が勉強なのだと思う。語学であれ、対話であれ、論文であれ、真剣に向き合えば時間も気力も奪われてぐったりするけど、その疲れは清々しい。そして、勉強すればするほど、自分はひとりではないとわかる。言葉を通じて誰かとつながることで、ほんの一滴かもしれないけれど、自分もポジティブな変化をもたらす流れの一部になれるからだ。

40歳を過ぎて再び始まったわたしの勉強の旅は、まだ当分終わりそうにない。自分の中に、新しいことが蓄えられていく楽しさを止められない。そして、この喜びを、いつまでも自分の中だけで留めていてはいけないという気もしている。この楽しさを、未知の誰かに伝えられたら、この上なくうれしい。3年前のわたしのように、言葉にできないモヤモヤを抱える誰かがいたら、勉強したら何かが変わるかも、実は勉強楽しいぜ!と叫びたい。だからそんな偶然の出会いに期待を込めて、学び直しの道のりでわたしがどんなことをしたか、何を読んだか、どんな授業を受けたか、どんなふうに時間やお金を使って、どんな成果や発見があったか、振り返りつつ記録していこうと思う。

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