一日一菓

エッセイ/旅の記憶/食べること/生きること

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ストックホルムの画家

スウェーデンのストックホルムで、夕方、海辺を散歩していた。2日前、ヨーロッパを周遊する長距離バスEurolinesで到着したばかりだった。強烈な夏の西陽を浴びながら、私はスケッチブックを広げられる場所を探していた。 絵心があるわけではないけれど、旅先では何かしら絵を描くことにしている。無数のボートのうちの1隻を描いていると、背後から低い声がした。 「Are you an artist?(アーティストなの?)」 見ると、50代後半くらいの男性だった。短パンにビーチサンダル

    • 本棚

      昔から、人の本棚を覗くのが好きだ。並んでいる本の背表紙を眺めるだけで、なんとなく、その人のことを知ったような気になれるから。だからなのか、人に自分の本棚を覗かれるのはなんとなく気恥ずかしい。表面では気づかれていない私の一部が、そこに隠れているような気がする。 仕事柄、料理やお菓子に関する本はとても多い。本棚の1/3はレシピ本で占められている。食にまつわるエッセイ本は、いつでもさっと気軽に開けるよう、バッグに忍ばせて持ち歩けるよう、文庫本で買うことがほとんどだ。 ほかには、

      • 台北の路地

        21:30に空港に到着した。もわっとしたアジア特有の空気のなか、霧雨が降っている。初めて訪れる国では夜の便を避けているが、航空券の価格とスケジュールの都合上、仕方なかった。空港内で手早く両替をし、急いでバス乗り場へ直行して目的の路線を探す。バス乗り場にはまばらな人の姿があった。荷物を運転手に預け、2列目の席に陣取る。 以前、海外に行ってから10年以上が経つ。パスポートはもちろん切れていたので、出発前に更新した。行き先にはずっと訪れてみたかった台湾を選んだ。空港からホテルまで

        • 海辺の町で

          ◯月某日 今週は2ヶ月ぶりに、海辺の町で過ごす。仕事終わりに近くの海岸へ行って散歩。大きくてきれいな珊瑚を見つけ、思わず持ち帰る。 海辺の町に帰ってくるたびに会う友人がいる。まだ小学生の子どもが2人いるのでたいてい会うのは昼間だけど、今回は夜に出れるという。まだ行ったことがない町内の居酒屋で会う約束を取り付ける。 久しぶりに帰ってくると、仕事つながりの人たちの店にも顔を出さなければならない。そして、ハタと気づいた。「しなければならない」と考えている自分がいることに。だか

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        ストックホルムの画家

          前世

          小学生の頃、ピアノの練習を始めた。初めはグループレッスンに通い、中学生になってからは個人レッスンへと切り替えた。 教えてくれたのは当時、20代後半ぐらいのふくよかな体型をした女性の先生で、まん丸の顔にメガネをかけていた。一見穏やかそうに見える先生はとても厳しく、譜面を間違って読んだり、手の位置が違ったりすると、私の手の上に大きな彼女の手をバンと押し付け、私の手は鍵盤と先生の手に挟まれる形になる。それが痛くて、とても嫌だった。 当時は練習に熱心ではなかったので、週1回の練習

          自分が大切にされる世界

          最近はすっかり夜が明けるのが早くなった。寝起きは良い方なので、目覚めるとすぐにベッドから起き上がる。まずはカーテンを開けて空気を入れ替え、台所に行ってぬるめの白湯を飲む。 そのまま洗濯、玄関の拭き掃除、トイレ掃除、涼しいうちに草刈りを済ませ、10分だけと決めている瞑想やピアノの練習、調子が悪いときのお灸なども朝のうちに。 これだけやってもまだ8時。1日を有意義に使える。 最近、気になっていた人や物との縁が、するすると繋がっている。先日は、ずっと素敵だなと思っていた方から

          自分が大切にされる世界

          山暮らしの洗礼

          山暮らしで何に一番困っているかというと、なんといっても虫だ。我が家は築50年ほどの古い木造一軒家で畳の部屋も多いので、湿気が溜まりやすいのだろう。気温が上がり始める頃から、あらゆる虫が出てくる。 まず見かけるのはヤモリ。漢字では「家守」と書き、文字通り害虫を食べて家を守ってくれるといわれている。だから引越し当初、「ヤモリとは共存したほうがいいよ」と言われた。特に害はないから放っておくけれど、トイレなどの狭い空間で一緒になると、さすがにビクッとしてしまう。 特に苦手なのが、

          山暮らしの洗礼

          想像力の使いみち

          10日ほど前、家の中で低く硬い木のテーブルに思いっきりスネをぶつけ、その衝撃で転倒してしまった。普段は置いていないそのテーブルを、前日に使う予定があるからと、廊下に置いていたのをすっかり忘れていた。慣れとはこわいもので、夜でも真っ暗な中を移動するのが習慣になっていた。急いでいたとはいえ、あんなにも強い衝撃を感じたのは人生で初めてだったかもしれない。 瞬間、何が起きたか分からなかった。痛みは少しだけ遅れてやってきた。あまりの痛さにその場から動けず、5分ほどは倒れていたと思う。

          想像力の使いみち

          編む

          数年前、編み物を始めた。20代の頃に一度挑戦し、私には向いていないと諦めたものの、コロナ禍で家で過ごす時間が増えたこともあり、再び始めてみることにした。 なぜ一度断念したのかというと、編み図が読めないから。編み図を詳しく解説した本をいくら眺めてもそれは暗号そのもので、編み物の世界の入り口への扉を、ピシャッと目の前で閉ざされたような気になった。 しかし、世に出ている「動画」のおかげで、編み物ができるようになった。まったく理解できなかった暗号の解き方を、映像を介して手取り足取

          完璧な日々

          役所広司さん主演の映画『Perfect Days』を観に行った。役所さん演じる主人公・平山の代わり映えのしない、淡々とした日常を映した作品だ。監督はヴィム・ヴェンダース。彼の作品が好きで、そのほとんどを観ている。 平山は毎日同じ時間に起き、洗顔し、髭を剃って着替え、家を出る。仕事は都内のトイレ掃除。無口な彼は、職場の人ともほとんど言葉を交わさない。仕事が終わると日課の銭湯に行き、行きつけの店で一杯。寝る前に布団の中で文庫本を読み、眠くなったら寝る。それの繰り返し。 休日に

          完璧な日々

          ヤマザキ

          実家のある町には、私が高校生の頃まで「ヤマザキ」があった。そう、ヤマザキパンのチェーン店、いまでいうところのコンビニみたいな小店で、パンはもちろん、ケーキやホットショーケースに入った肉まん・餡まんなども売られていた。 高校へ通うバス停のすぐ近くにあったこともあり、よく店に足を運んだ。部活を終えて最終のバスに乗ると、最寄りのバス停に着くのがだいたい19時50分頃。店は19時に閉店だったので、部活がない日にだけ間に合う。19時前にバス停に到着した日には、バスを降りて徒歩20秒ほ

          お弁当

          高校は進学校だったため、朝と夕方の2回、課外授業があった。学校まではバスで1時間。朝課外は8時開始で、毎朝6時20分頃の始発バスに乗る。夏はすでに明るいからいいものの、寒い季節にはまだ真っ暗ななか、素足が見えるスカートをはいた姿でバス停まで歩くのも大変だった。 とはいえ、もっと大変だったのは母だった。毎朝5時前には起きてお弁当を用意してくれた。お昼には売店でパンの販売があったけれど、ほとんどの生徒はお弁当持参で通学していた。 私が5時半頃に起きて台所に行くと、すでに台所に

          デトックス

          今朝の気温はマイナス5度。朝起きると、一面真っ白な世界が広がっていた。山の家は2回目の冬を迎えるけれど、やっぱり寒さにはまだ慣れない。朝から水道管が凍結し、トイレの水が流れない。料理用には山の汲み水があるから大丈夫だけれど、11時頃になって気温が少し上がり、水道から水が流れるとホッとする。 普段の暖房器具は灯油ストーブとこたつ、エアコンの3つ。時間帯によって使い分けていて、朝起きたらまずは灯油ストーブとこたつをつける。ストーブは部屋がすぐに温まり、1時間もつけているとうっす

          デトックス

          母のこと

          私の母は、今年68歳になる。22歳で結婚してすぐに私を産み、その翌年には弟を出産した。職人の夫と子ども2人と一緒に、小さな借家で慎ましやかに暮らしていた。 母は結婚するまで実家を出たことがなく、自動車教習所の事務の仕事にも実家からバスで通っていたという。特にこれといった苦労もしたことがなく、「普通」に生きてきたそうだ。 そんな母は、結婚して縁づいた家で親戚関係に悩むことになった。私の祖父はとても気象が荒い人で、気の弱い父はなにかにつけ怒鳴られていた(それなりに理由はあった

          選択肢

          年齢のこともあり、もうすっかり、子どもを産むことが自分の人生には起こらないと思っている。もちろん、もっと若い頃は「子どもを産んで育てたい」、と思ったこともある。そんな考えを手放してから数年経ち、2年前に生まれた姪っ子をかわいがっている。 先日、4人の子どもを産んだ幼なじみMが、彼女の2歳になる末っ子を連れて遊びにきた。やんちゃな末っ子は常に動き回り、片時も目を離せない。高齢出産にもかかわらず、Mは自宅での分娩を選び、無事に新しい命をこの世に送り出した。 きっと最後の育児だ

          運転

          私は運転が好きで、腰さえ痛くならなければ、何時間だって運転できると思っている。運転中はいろんなことを考えるのにもってこいの時間だ。家で考え事をすると、なぜかいい方向へいかないのに、流れる景色を見ながらだと、前向きな気持ちになれる。 特にスピードがあると爽快感が増すので、時々、無性に高速道路を運転したくなる。急カーブもないからハンドルをそれほど切る必要もなく、軽くハンドルに手を乗せて、アクセルをいつもより少し強く踏むだけ。小さな軽自動車で、どんどん普通車を追い越していく。それ