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本屋と言葉とわたしと


わたしは言語化することが苦手なのかもしれない。
「言語化するの上手だね」って言われること多いけど、
実は全然そんなことない。
もうすこし細かく言えば、もともと苦手だったけど、
うまくできるようになってきた、のかもしれない。

小学校の宿題で一番苦手なのは読書感想文だったし、
勉強で暗記するときは映像で覚えるタイプだった。
ノートには絵と図がいっぱいで、
ノートを写真で撮るみたいに頭にいれていた。

何か思いついたときや誰かの話をきいているときも
だいたいイメージとか図とか絵で理解している気がする。
絵が浮かんできて、それで話がふくらんでいく。

自分のこころにあるものについても、
そんな感じでとらえている気がする。

それをうまく言葉に昇華するのが難しいなと思う。
言葉にできないってことは、自分でもそれをはっきりと認識できていないってことだ。
はっきり認識できていないってことは、人に説明できないってことだ。


大好きなドラマ、大豆田とわ子と三人の元夫の中に、
「言葉にしたら、言葉が気持ちを上書きしちゃう気がしてさ」というセリフがある。とわ子が亡くなったお母さんへの悲しみに対して言うセリフである。

気持ちと言葉は必ずしもイコールじゃない。
イコールの言葉がない場合は、無理に言葉にしてしまうと言葉にならなかった気持ちは、その言葉に負けてしまう。

随分前に聴いた「ゆる言語学ラジオ」では、「ものごとを分けるために言葉が生まれた。言語単位で理解するのが人間」というようなことを言っていた気がする。


何と言ったらいいかわからない気持ちや考えや感情は、名前をつけたり言葉を与えないと、人に説明できない。自分にも認識させられない。
でも、たしかにそこにある。
何かはわからないけど、ある。
あるのに、はっきりと分かることができない。 

はっきり分かるためには言葉にしないといけない?
でも言葉にすることでこぼれ落ちるものもある?
気持ちと言葉。なんて不自由なのだろう...!


でも、だから本を読むのかもしれないと思った。
本を読むのはもともと好きだけど、
最近は好き以上に「必要なもの」になってきている。

自分じゃない誰かの紡いだ言葉に
自分の内側の何かが振動するとき、
形がなかったそのものたちに
形がやっと与えられる。気がする。

ときにそれは間違っていて、
違う形をはめてしまっていることもある。

間違っていたことに気づいて、
ぴったりな形を与えてあげるためにも
また本を読む。言葉と出会う。

今日も、読むつもりのなかった本に偶然出会って、偶然手に取り、頁をめくって、言葉に出会って、自分に触れた。

誰かと話すことでも、ドラマでも、映画でも、
言葉には出会えるし、同じ様なことは起きる。
でも、本で出会う言葉はなんか特別な感じがする。
ゆっくり読んで、じっくりその場で咀嚼できるからかな。
わたしにはそのくらいのんびりした言葉との出会い方のほうが合っているってことかもしれない。

荻窪の本屋titleにて


Amazonでも楽天でも欲しい本はピンポイントで買えるけど、そうじゃない偶然ばったりの出会い方がたのしい。「なんか気になった」「なんか目に留まった」「なんか開いてみた」という、なんか言葉にできない気持ちで手にとった本で、なんかおもしろかったやつ、結構ある。

本は1日に200冊も出版されているらしい。
おととい偶然に訪ねた素敵な本屋のお姉さんから教えてもらった。
その中に素晴らしい本がたくさんある。自分ではとてもすべては読みきれない。選べない。

各すてきな本屋さんの棚には、その膨大な本の中から、店主が悩み抜いて選んだ推しの本たちが並べられているのだろう。
その推しの中から、また自分の推しを選ばせてもらえる喜びよ。偶然たまたますてきな本と出会える幸せよ。

読みたいと思っていた本がすてきな本屋さんにあるとうれしくなるし、全然知らなかったけど気になる本に出会えるとうれしい。
今日気になる棚と、1週間前気になっていた棚が違うのもおもしろい。なんとなく本棚を眺めていると、今自分が何を考えて何を欲しているのか分かってきたりするから不思議である。

そんな出会いがあるすてきな本屋さん、
たのしいし大好き。

本屋に行くこと、本を読むこと、は
たかだか趣味のひとつみたいなことだけど、
私にとってはけっこう必要なことだ。

「本屋に行くこと」「本を読むこと」。
言い換えたら「言葉に偶然出会うこと」かもしれない。「自分を分かっていくこと」かもしれない。

偶然の言葉から、自分の内側に触れられる。
自分のことを自分で直接見ることができないみたいに、鏡や写真で初めて外側から見ることができるみたいに、自分のこころも直接は触れられなくて、誰かの言葉や表現を通してしか分かることができないのかもしれない。

そうやって、どこかで読んだ誰かの言葉を借りながら、自分を理解したり、自分を表現したりしている。

わたしの言葉は、わたしの言葉のようであって、わたしの言葉ではない。だれかの言葉でもあって、みんなの言葉でもある。
私の今の言語化力は元々あるものではなくて、そうやって出会ってきた言葉の蓄積で生じた力なのだと思う。本は偉大だ。


偶然出会ったすてきな本屋さん「ぐるり」(千駄木)



今住んでいる町にはすてきな本屋さんがないのでさみしい。いい本にたまたま出会える機会、大事。

そのうち、本と靴下の店をやりたいな〜
旅に行ったら買ってしまうものTOP3に入るものが本と靴下だからである。本も靴下もだいすき。気軽に買えて、毎日使えるもの。

すてきな本屋はひとつの街に何軒あってもいいと思う。店主の個性がでるから、たくさんあったらあるだけ巡るのが楽しいと思う。そんなすてきな田舎街になったらいいなぁと夢見ながら、
今日もわたしは本屋に行って、本を読む。

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