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結婚式とけつあなと私

 昨日、友人の結婚式に参列させていただいた。
 柔らかな笑顔とくるくると変わる表情と丸い瞳が特徴的な彼女はお菓子に例えると綿菓子のように白い純粋さを持っていて、どんなに傷つき泣いた夜もその白さを誰にも侵させることはなかった。

 彼女が幸せそうな顔をしているのが心底嬉しかった。そこに辿り着くために歩みを止めなかった彼女を誇りに思う。

 彼女はもう既に子供を出産してから1年が経っていて日々離乳食を作ったりと子育てに奮闘している。ちょっと前までは料理もほとんどしたことがないと言っていたのに。

 

 母になればそれができるようになるのだろうか。
 
 
 子を産まない人生を選んだはずなのに、だからこそ選ばなかった方の人生について考えを巡らせてしまう。
 無条件に自分を求めてくれる存在。愛してくれる存在。
 おそらく愛さずにはいられないのだろう。
 だがそれは自分の親から条件付きの愛情しか得られなかったから、それを子供に求めようとしているだけなのかもしれない。
 もう欲しいものもなく人生が長くて退屈だろうとわかっているから、育児で紛らわせようとしているだけなのかもしれない。だとすると、寂しさに誰かを付き合わせたいのだろうか。




 とか何とか自分と対話している間に、今週は大腸の内視鏡検査がある。

 GWあたりから毎日お腹が痛くてボルタレンを飲んでいたらついに先日倒れてしまったため後回しにしていた検査をするツケが回ってきた。血液や尿や超音波などの検査では原因を特定できなかったため絶対にやらざるを得ない。
 この準備が結構大変で、世界一のゲロマズドリンクを2リットル飲んで腸を空っぽにしなければならないし、前日はクリアスルーというドロドロしたレトルトの大腸内視鏡食品しか食べてはいけない。

 そしてお腹の中に何も残っていないことを示すために最後に肛門から出たものが透明な液体であるという証拠写真を撮って見せなければならない。


 
そんな羞恥プレイは前代未聞であるため「便器の写真を撮ってきて見せてくださいね」という看護師の顔をこの世の終わりみたいな顔をして見つめ返してみたのだが、澄んだ目をした看護師は無反応だった。
 
自分が「致した」後の便器の写真なんて撮りたくないし、カメラロールをそんなもので汚したくない。写真を見ることになる看護師にも申し訳ない。

 そして看護師が写真を見た記憶を消すためなら私はどんなことでもやってのけるだろう。

  
 

 大腸内視鏡をするということはつまりお尻の穴からカメラを入れる。
 つまり、人様にお尻の穴を見せることになる。けつあな確定とは今の私の状態である。


 人間は2種類に分けられる。肛門に何かを入れたことがある人間とない人間だ。
 私は遂に「ある側」へと足を踏み入れることになる。

 「お尻におもちゃ入れて遊んでたら取れなくなっちゃって肛門科に行ったんだけど、保険効かなくなるからたまたま全裸で座ったところにおもちゃがあることにしたの〜」というアナル好きの友人と同じ「ある側」へ……

 ああ、いやだ。いやだ。いやだあああああああ!!!!!!

 
 


 なぜか半年に一度の周期で体の調子がままならなくなる。前回は咳喘息が1ヶ月続き肺炎になりかけた。
 「どうして私がこんな目に?」と思わずにはいられない。いられないけど、絶対にそんなことを誰にも言わないし、表情ひとつ変えてやるもんかと思う。


 今回のこともなるべく面白おかしく友達に話せるエピソードになればいい。大きい病気だったら笑えないからね。頼むよ、私。

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