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塩田千春 - 僕の好きな藝術家たち vol.5

好きな藝術家について書きたいように書いてみるシリーズ。その藝術家についてのバイオグラフィとか美術史的意義とか作品一覧とかはインターネットで他のページを参照してください。


銀座を歩いていて、ふと資生堂ギャラリーの前を通りかかったら、何か展示をしているようだったので、ふらっと入ってみた。
「椿会」と題された小ぶりの展覧会で、現代アートの造形作品や映像作品が並べられている展示だった。

そこで、塩田千春と出会った。


こんがらがるように張り巡らされた、夥しい赤い糸。それは迸る血のように思えて戦慄し、複雑に絡み合った運命の赤い糸のようで人と人との結びつきの複雑さに切なくなった。人の体を縛る糸が痛みを与えるように、塩田の作品からは心が糸で締め付けられるような痛みが伝わってきた。そしてそれは、間違いなく、今生きてあることが我々に与える痛みの、形象化だった。

痛みを覚えずに生きていくことなんてできない、その苦しみや悲しみを、こんな風に藝術に昇華させる塩田千春という才能に瞠目した。

それから塩田千春の作品を観たいといろいろ情報を探したけれど、なかなか観る機会に巡り合えず、何度か小さな展覧会で小ぶりな作品を観ることができたくらいだった。

だから、森美術館での大規模な回顧展をやると聞いた時は、本当に嬉しかった。一方で、こんなマイナーなアーティストの展覧会、人が集まるのかと疑問に思ったりもした。
もちろん、そんなことは僕の認識間違いで、森美での展覧会は大盛況、多くのファンを動員し大成功だった。その後もメディアで塩田千春の作品や本人ご自身を目にする機会が多くなった。目出度いことである。

しかし一方で、こんな風にも思う。塩田千春の作品の痛みを本当に理解しているのは僕だけだ、と。
まるで太宰治の読者のような思い上がりっぷりだと自嘲するけれども、塩田の作品には観るものにそう思わせる、観るもの心に暴力的に割り込んでくるパワーがある。
どれだけ世評が高くなり人気作家となろうとも、僕にとって塩田千春は極めて距離の近しい、痛みを共有できるパートナーだ。

彼女がまき散らす赤い血に塗れながら、その淫靡さに恍惚となる。そんな風に僕は彼女を愛している。

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