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#34 交通の街、横浜の歩き方


交通の街、横浜

 幕末期、鎖国政策が終わり世界へ開かれた最初期の港の1つが横浜である。今の横浜の街の歴史はここから始まったと言っても良い。その後明治時代に入り急速に近代化が進む中で、海外からの日本の玄関口として横浜は鉄道と海運を繋ぐ交通の要衝となった。そしてその面影は現在の横浜にも色濃く残っているのである。

桜木町駅

桜木町駅に隣接する商業施設・CIAL桜木町の「旧横濱鉄道歴史展示」

 日本の鉄道の歴史は横浜駅(現・桜木町駅)と品川駅を結ぶ仮開業の路線から始まった。現在の京浜東北線はそのルートをほぼそのまま走っていると考えて良いだろう。そしてその横浜駅の役割はもちろん旅客を運ぶというのもあっただろうが、港への貨物のアクセスという意味合いも当然大きいものであった。現在では廃線となった桜木町駅から伸びていた線路の跡を現在でも辿ることができる。

横浜船渠

ランドマークタワーと日本丸

 桜木町駅からランドマークタワー方面へ歩くと美しい帆船が目に留まるだろう。この帆船日本丸も重要文化財に指定された貴重なものであり、大変興味深いものではあるが、今回注目するのはその日本丸が係留されているドック(船渠)である。現存するドックは2つあり、日本丸が係留されている方が第一号ドック、ランドマークタワーの真下に空の状態で保存されているのが第二号ドックだ。それらのドックは明治時代に造船所として造られ、改修などを重ねつつ1983年まで使われていた。

日本丸が係留された第一号ドック
第二号ドック

 そして後ほど紹介する氷川丸が造られたのもこの横浜船渠である。横浜、そして日本の海運を支えた歴史的な場所の一つだと感じることができるだろう。

汽車道

遊歩道として使用されている汽車道

 その名の通り廃線跡を再利用し遊歩道として整備したのが汽車道である。先述の旧横浜船渠を脇に掠めるようにして赤レンガ倉庫や山下公園方面へ続く線路がここに通っていたのだ。ここで見るべきは鉄橋である。建設当時恐らく日本ではまだ金属加工技術が未熟であったためかアメリカから輸入された橋が現役で使用され、大量の人間がその上を渡っているという光景は凄まじいものである。

西暦1907年にアメリカン・ブリッジ・カンパニーによって製造されたことを示す銘板

赤レンガ倉庫周辺

完成当時の赤レンガ倉庫2号館【画像出典:横浜赤レンガ倉庫公式サイトhttps://www.yokohama-akarenga.jp/】

 「汽車道」を通り、鉄道は赤レンガ倉庫の脇にまで伸びていた。赤レンガ倉庫もまた明治時代、外国貿易の貨物を取り扱うために建てられたものである。港から揚げられた貨物は赤レンガ倉庫に入れられ、鉄道によって桜木町駅、さらには東京方面へと運ばれていった。そして日本からの輸出品もまた鉄道でここまで運ばれ、世界に届けられたのである。

再び、廃線跡

 赤レンガ倉庫を通り過ぎてもなお、かつての線路は港の方へ伸びていた。現在はこの廃線跡もまた遊歩道として整備され、赤レンガ倉庫〜山下公園のあいだを結んでいる。

鉄橋に付けられた銘板

 そこで興味深いのはかつて線路が通っていた鉄橋に付けられた銘板である。そこには「大正元年八月 浦賀舩渠株式會社製造」と書かれているのだ。大正元年は西暦に直すと1912年である。先述の汽車道の鉄橋が1907年製であり、その時期にはまだ鉄橋を建造する際に輸入に頼らざるをえない部分があったと思えば、当時日本ではかなり飛躍的に近代化が進んでいたのではないかと思われる。

横浜税関と大さん橋 

横浜税関

 廃線跡を進むと横浜税関の建物が見えてくる。ここがかつて貨物も含めて海外からの日本の玄関であったことを象徴する建築物である。そしてその向かいにあるのが大さん橋だ。桟橋自体は建て替えられているが、横浜開港の頃からこの辺りには桟橋があり、外国船も多く寄港していた。現在ではクルーズ船が主だが、かつてはここで荷揚げされた貨物が赤レンガ倉庫などに運ばれ、また鉄道によって各地へ運ばれていったのだろうと思われる。

現在の大さん橋

山下公園と氷川丸

氷川丸

 廃線跡の遊歩道を歩いて辿り着くのが山下公園だ。ここは関東大震災で甚大な被害を受けた横浜の瓦礫を埋め立て造られた公園である。その山下公園から伸びる桟橋に係留されているのが氷川丸だ。1930年に横浜船渠で造られ、横浜〜シアトル間を結んだ氷川丸はこの地に縁が深く、かつての国際港であった当地を偲ばせる存在の一つである。船内には飛行機や大型の貨物船がまだ発達していない時代の様子が分かる展示がされており、氷川丸のような船が海外との交流において非常に重要なものであったことが分かる。

おわりに

 桜木町駅から山下公園のあたりまでの廃線跡を辿ることでここがかつて日本と海外を結ぶ玄関口であり、人とモノを運ぶ交通の要衝であったことがよく分かるはずだ。もし横浜に行く機会があれば注目していただきたいと思う。

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