ゲイの世界は閉鎖的


まず初めにこのnoteを始めるキッカケになった記事がありますので、先にそちらを読んでから読んでいただけるとありがたいです。

近年LGBTの権利を認めようというような動きが活発になっています。
婚姻制度の導入などの話も出ており、結婚に近いパートナーシップ制度の導入が進んでいる地域もあります。
しかし昔よりは良くなっているとはいえ、未だにLGBTの人たちがオープンに生きるという事は実現できていないように思います。
今回は僕自身がゲイである事を活かして、ゲイの世界について話していこうと思います。

タイトルにもある通りゲイの世界というのは非常に閉鎖的です。
昔よりは改善されているとはいえ、僕の理想からするとまだまだ閉鎖的だなと感じています。
カミングアウトしている人が少ない事からもよく分かります。

皆さんは同性愛者だと公言している人に出会った事はありますか?
「ない」と答える人か、あっても数える程度しか出会ったことがない人が多いのではないでしょうか。
しかし割合的にはきっと皆さんの想像以上に多くいるはずです。

正確な数字は僕自身も把握していないのですが、よく言うのは学校だと少なくともクラスに1人くらいはいる計算だというのは聞いたことがあります。
仮に1クラス50人と多めに設定したとして、ざっくり日本の人口を1億人と見積もると、200万人はいる計算になります。
想像以上に多いと思いませんか?

ここからはまだまだカミングアウトしている人が少ないという現状を踏まえてより具体的にゲイの世界がどれだけ閉鎖的であるかを当事者として話してみようと思います。
なお、レズビアンに関しては公言している人に出会ったこと自体がほとんどなく知らない事が多すぎるため、今回はあくまでゲイに限った話として記載する事が多くなります。
レズビアンでも似た状態がある可能性はあるかと思いますので、レズビアンの方にも何か伝わるものがあれば嬉しいです。

今の日本社会においてゲイ同士が出会う方法としては何が主流でしょうか。
インターネットがない時代には新宿2丁目がとにかく強かったと思いますが、現在はゲイ向けのマッチングアプリであったりTwitterなどSNSがメインになっています。
また、マッチングアプリが出る前はゲイ専用の掲示板サイトなどで出会うケースも多く、僕自身も昔それを使っていた事があります。

学校や職場で告白して付き合うというような異性愛者では当たり前の交際が同性愛者にとってはカミングアウトという大きな壁がある為、かなり難しいのが現状です。
ただ全くないわけではないようで、とある僕の友人は奇跡的に同級生が勇気を出して告白してきて互いゲイだったので付き合えたと話していました。
個人的にはその経験がめちゃくちゃ羨ましいです笑
やっぱり学校の中で交際するっていう甘い青春みたいなものは一度くらい体験してみたかったなぁという気持ちがどこかにあります。

もし多くの人がカミングアウトしてオープンにしていればそのような機会に恵まれる可能性は格段に上がるでしょう。
しかしそれをカミングアウトできない人間が悪いというような流れで論じる事はあまりにも背景を想像できていなさすぎると思います。
そもそも論を言うのであれば、カミングアウトという言葉が存在している事自体がおかしいのです。

なぜ社会の理解が表面的には少しずつ進みつつある中でカミングアウトできる人がそこまで増えていないのかと言うと、単純に進みがまだまだ緩やかである事だけでなく同性愛の当事者の親世代の理解の薄さが大きいのではないでしょうか。
たとえ学校や職場などでLGBTについての教育がされるようになったとしても、誰もがそのような情報に触れるとは限らず、知識がアップデートされないままの人も多いのではないでしょうか。
特に既に退職されている高齢者世代には知識がアップデートされないままの人が多いでしょう。

何よりこの国を動かしている人間たちの多くが高齢で、古い考え方に固執して既得権益に縋り付く残念な人たちが多いというのも問題でしょう。
ましてや選挙権を持つ人の多くがLGBTに対して理解のない高齢者である中でLGBTの権利を大々的に訴えたところで選挙で負けてしまうというシビアな現実もあるでしょう。

このような現状がある為に、ゲイの世界というのは良くなっているとはいえ未だに閉鎖的になっています。
同じ社会に属する同じ人間であるにも関わらず、異性愛者と同性愛者の交流には大きな隔たりがあるような気がしています。
それもこの違和感は異性愛者側にはなかなか伝わらないところがあります。

noteを始めるキッカケになったカミングアウトの記事にも書きましたが、世の中は相手が異性愛者であるという前提で話が進んでいくという現状があります。
「結婚するのか?」「彼女はいるのか」という質問にどれだけのゲイの人たちが苦しめられてきたのでしょうか。
この前提が今のところほとんど崩れていないというのが現状でこれが崩れない限りは同性愛者が感じるこの閉鎖的な空気感はまず変わらないでしょう。

ある意味この閉鎖的な空気感がもっともよく表れているのが新宿二丁目ではないでしょうか。
新宿二丁目はゲイの人が唯一オープンでいられる憩いの場という立ち位置であり一見すると救いのように思えます。
しかし同時に新宿二丁目でオープンでいられる事はつまりそれ以外の社会で抑圧されているという事を逆説的に示しているのではないでしょうか。

新宿二丁目文化を否定するつもりはありませんが、個人的にはあの空間があまり好きではありません。
2回ほどゲイバーに行った事がありますが、なんとなく居心地が悪くちっとも楽しめなかったのを覚えています。
僕の友人にも同じ感想を持つ人が多くいたり、ゲイの中でも二丁目の空気感を好まない人も多くいるように思います。
(余談ですが、二丁目文化にどっぷり浸かっているようなゲイの事を染まっていると表現する風潮がゲイの世界にはあり、プロフィールに染まっている人は苦手ですと書く人がいたりもします)

二丁目文化が時にゲイ当事者にまで嫌がられる理由として、二丁目でしか自分らしくいられないというような閉鎖的な雰囲気に対する絶望があるんじゃないかと考えています。
少なくとも僕自身はあの雰囲気に対してはそのようにに感じています。

二丁目に行くとよく分かるのが、ゲイの人の中でゲイネタを笑いにして生きていくという生存戦略が存在しているという事です。
ゲイバーの店員さんがオネエ口調でズケズケとモノを言ったり、ヘヴィな下ネタをかましてくるのはある種の生存戦略であり自己防衛なんじゃないかと感じるのです。
そこに対して少し無理をしているような印象や自然体じゃないという感想を持つ人がいるのも当然なのかもしれません。

とはいえ僕も自分自身がゲイであるという立ち位置を利用して笑いを取るような事はするのですが、それが自然体の範囲を超えるとどうしても無理をしているとか自分を偽っているとかそういう雰囲気が出てしまうものです。
もちろん仕事において芸人さんであったり役者さんであったりキャラを演じるという事はゲイとは無関係にあるとは思いますし、それを好き好んでやる分には何も問題がないと思います。
しかしもしそれしか生存戦略がない、そうするしかないという事であればやはり問題なのではないでしょうか。

強い抑圧の末に放出されるエネルギーというのは、言葉を選ばずに言うのであれば歪んだエネルギーになる場合が多いです。
セックス依存やアルコール依存、ギャンブル依存などの依存症も含めて根っこには強い抑圧がある場合が多いです。
そういう意味である種の歪んだエネルギーの異端さや希少性に対して拒絶する人がいるのも仕方がないように感じています。

すごく極端な意見としては二丁目文化が衰退するくらいLGBTが世の中にとって当たり前の存在として受容される事が理想なんじゃないかと思っています。
学校や職場などの日常的なコミュニティの中に当たり前のようにLGBTの存在が認識されて共生している状態が僕にとっての理想の社会です。

https://note.com/ibdyuki/n/n78f8c21b5fbc

以前書いたこの記事の内容とも少し被るのですが、「存在は認めるけど自分たちとは関わらないでくれ」というような無言の圧力を感じなくて済むのが理想かなと思います。
カミングアウトしたは良いけど、その話題は触れてはいけないタブーとしてスルーされてしまうという事実も確かにあります。


違った個性の人間たちが独立して存在して互いに自分の本心を押し殺して顔色をうかがって議論を放棄する、このような社会に明るい未来はありません。
同性愛に限らずマイノリティであろうがマジョリティであろうが関係なく自己主張して、お互いの違いを認め合いその違いを楽しみながら理想的な集合知を見つけるというより生産的で幸せで個々のポテンシャルをより発揮できるそんな社会に少しでも近づけるように、自分なりに小さな事からでも行動を起こしてみようと思います。

そもそも僕がこのnoteを通じてカミングアウトをしたのも今の社会に対しての不満が原動力として大きいです。
社会に対して少しの力でもアクションを起こす事、そのキッカケとなったのがあのnoteでした。
このnoteを読んでいただけた方には少しでも良いので、LGBTやマイノリティについて問題意識を持っていただいて、もしLGBTやそれ以外でもマイノリティという立場に苦しめられている人がいれば味方になっていただけたら嬉しいです。


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