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丁寧な暮らしを目指してるわけではないけれど
紅生姜がちょっと苦手だった。
なのであまりこれまで興味がなかったのだけれど、こないだ一度やってみようと、新生姜を薄く切って梅酢に漬けてみた。
美味しい紅生姜、というかピンク生姜ができた。
ちょっと口寂しい時にそのままひとかじり。
シャキーンと目が覚める爽やかさ。う、うまい。カレーに添えても新鮮。
私たちはわざわざ、人工的で美味しくないニセモノの商品を買って食べて、「美味しくない」と思ってるこ
肉体を持って生まれた意味
肉体を持ち、感情を持つ人間の、どうしようもなさを含んだ奥深くて豊かな強さや、弱さや、美しさや可能性を、見て知って体感して、あらゆる感覚で味わいたくて、生まれてきたのかもしれない。
地球の美しさを見たいと昔から思っていたけど、人間のそれもだったんだな。
だから肉体のある地球だったんだな。
だから、セラピストという職業が好き。
そして、セラピストでなくてもそれはできる。
何かの肩書きや職業で表
人体という有機体への愛が止まらない
カラダの声を聞けるようになってくると、腹の中の小さい人の声を聞けるようになってくる。
ほぼ同じことだから。
そんな鍛錬を細々とだけど10年近く続けているので、人さまのおカラダに触れているとその声は聞き取りやすいのですが、自分自身はまだまだ疎かにしがちです。
まあ、きっとそれを始める前よりはずっとキャッチしやすくなっているし、だからこそ、幼少期から溜め込んできたものが、「今やっと!」という感じ
聴くということは触れられるということ
雨の音を聴き
風の音を聴き
火の音を聴き
カラダの音を聴く
聴くということは
それに触れられているということ
雨の音に触れられ
風の音に触れられ
火の音に火の震えに触れられ
カラダに触れてると同時に触れられている
私たちはいつも
「やさしく触れられたい」
という根源的欲求を持っているが
ほんとうはいつだって
すべての存在から
優しく触れられている
そのことに気づけば
この世界の混沌を愛す
さっき、ファミリーコンステレーションへの愛を書いていて、「ああ、私はこの世界を愛しているんだな」と改めて思った。
そういえば、ずいぶん前につけたこのブログのタイトルも「この世界と恋に落ちる」だった。今は、「恋に落ちる」段階から、「愛している」段階に変わったのかもしれない。
私のこれまでの人生は、原家族の問題・負の連鎖が重くのしかかっていた。
周りがどう見ていたかはわからないが、学校時代も会社員
自分を生きる~ファミリーコンステレーション愛について~
ファミリーコンステレーション(別名:家族の座。ここでは「ファミコン」と略します)という、心理セラピーを時々で受けつつ(かれこれ出会いからは12年!驚)、自分でもファシリートできるように習っている。
ファミコンは、自分の悩みや取り扱いたいテーマを言って、それに登場する人物の「代理人」を、その場にいる参加者の中から選び、その場にそれぞれの代理人を「配置」するところから始まる。
そうすると、その代理
アンスクーリング日記始めます
【アンスクールなホームスクール日記】
私たちのこと。
学校だけじゃない、本当に楽しくて自由な学び方を探求している親子。
現在は、選択的登校から登校拒否に変わった小2息子と、ようちえんに渋々行ってる年長娘と、ホームスクール+森の学校(オルタナティブな育ちの場を主催中)という学び方・暮らし方をいかに楽しく楽に過ごすか、試行錯誤中。
私(母)も元不登校経験者、日本の学校というシステムのあり方に疑問を
学びのかたちを親子で模索しながら考えたこと~後編
前編はこちら。
半年間で私の「学校」イメージが変化。 そんなこんなで、下手の横好きなりに、まったく手探りながらも「半分ホームスクーリング」を実験した半年間。
私自身も、授業参観や懇談会という少ない機会だけれど、理解があって子どもたちのことを真剣に思ってくれている優しい先生や日々の活動の様子を少し知って、もちろん、学習中心であることや規律訓練的な行動が多い点は全く賛同しないけれど、かつての「学校
学びのかたちを親子で模索しながら考えたこと
なんとなく、noteの気分。まとまって書けそうにはないけど、今感じていることを久しぶりにアウトプットしたくなる。
学校か、ホームスクーリングか、フリースクールか。私たち親子の選択とその過程。今年小学一年生になった息子。
私が2年くらい前から、オルタナティブスクールの研究やお話会をしていたせいもあるのか、保育園年長の秋には息子自身が「学校は行かないでママと家で勉強する」と宣言していた。
当時、我
子どもに伝えられること
友人がおすすめしてくれた、「はじまりへの旅」という映画を観た。
ヒッピーあがりの両親が森のなかで6人の子どもたちを育てていたのだけど、精神病で入院中のお母さんが自殺をしてしまい、その葬儀に参加するために森の外へはじめて出ていく、というお話。
人を育てるとはどういうことか、正しいとはなにか、ということを突きつけられた。
このお父さんほど極端でなくても、子どもを育てるときは、自分の価値観、信じて