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「対話の暴力性」について考える

*本コラムは2023年MIMIGURIアドベントカレンダー10日目の記事です。前回は後藤円香さんの記事意志と余白を往復するデザインでした。



「対話」という言葉で検索すると、柔らかな笑顔を浮かべたやさしそうな人たちが、輪になって楽しそうに話をしているイメージ画像がたくさん出てくる。
やさしくて、あたたかくて、思いやりと共感にあふれた、楽しい空間。たぶんそれが、よくある「対話」のイメージだと思う。
もちろん、対話にはそのような側面もあるだろう。しかし、対話というものは、本当にそんなやさしいだけのものなのだろうか。なんでも共感してもらえる、楽しい空間なのだろうか。これまでずっと、私はそんな対話のイメージに疑問を感じてきた。

私はMIMIGURIという会社で、ファシリテーターと呼ばれる、「対話」に関わる仕事をしている。今回は、「対話」という営みに普段から向き合っている者として、あえて、対話の暴力的な側面や、そこに潜むリスクや危険性について、考えてみたいと思う。


私たちは決してわかりあえない

まずそもそも、「対話」というのはどのような営みなのだろうか。
「対話」という概念の正確な定義やその全体像を説明することは私の手には余るため、ここでは私が考える「対話」について、私見を述べさせてもらうことにする。

私自身は、「対話」とは、「異なる他者と出会うことで、自分自身が(他者と共に)変わってしまうこと」だと考えている。

私たちは、それぞれ自分にとっての信念や、正しいと信じている考えを持っている。しかし、対話の場においては、一人ひとりの信念や正しさは一旦脇に置き(判断の留保)、まずはその場にいる他者の語りに耳を傾けることが求められる。お互いが持っている価値観や考えを分かち合うことで、自分が見ていた景色とは別の景色が、自分には見えていなかった他者の景色があることを知る。このような「異なる他者の考え(他者の景色)との出会い」が、対話にとっては非常に重要だ。
もちろん、語られた他者の価値観や考えの中には、納得や共感ができないものもあると思う。むしろ、「自分の考えとは違う」と感じるものの方が多いだろう。このような他者の「わからなさ」に対して、私たちはどのように向き合えばいいのか。哲学者の中島義道は対話についてこのように書いている。

限りない「わかった」と「わからない」との揺れがあるであろう。
はてしない「ここまではわかった。だが、ここからはわからない」という限定が続くであろう。
この営みこそ「対話」である。

中島義道(1997)「「対話」のない社会 (PHP研究所)」

前提として、私たちは決して「わかりあう」ことはできないのだ。「私とあなたは決してわかりあうことができない」、それが対話の立脚点である。
私とあなたは違う。私たちは決してわかりあえない。それでも、対話を粘り強く続けることで、「わかった」と思える部分が少しずつ見つかるかもしれない。「わかりあえる」部分を、少しだけ広げられるかもしれない。でも、どれだけ頑張っても、結局は全てをわかりあうことはできないのだ。そんな風に、祈りと諦めが入り混じった曖昧な感情を抱きながら、それでも私たちは対話を続けていくしかない。

対話とは、なんて非効率で、時間のかかる、気の遠くなる営みなのだろうか。いま世の中でもてはやされている「生産性」や「効率」、「5分でわかる!◯◯」といった価値観とは、はっきり言って真逆の方向に向いた営みである。
しかし、たとえそれが非効率であっても、「他者とわかりあう」という営みを、効率化して時短することなんてできない。むしろそれは、私たちが永遠に向き合い続けなければならない、ゴールや終わりがない果てしない営みだと言っていいだろう。「5分でわかる!他者」なんてものは、決してありえないのだ。

対話は、闘争である

ところで、他者のことが「わかる」「理解できる」とは、はたしてどういうことなのだろうか。それは、自分の中に新しい知識や視点が増えるような経験なのだろうか。この点について、ロシアの思想家ミハイル・バフチンは、このような言葉を残している。

理解しようとする者は、自己がすでにいだいていた見解や立場を変える、あるいは放棄すらもする可能性を排除してはならない。理解行為にあっては闘いが生じるのであり、その結果、相互が変化し豊饒化するのである。

桑野隆(2021)「生きることとしてのダイアローグ(岩波書店)」

つまり、他者のことが「わかる」「理解できる」とは、ただ単純に、他者の考えや他者の景色を、"今の自分のままで"知ることではないのだ。
私が他者の生きる世界を真剣に理解しようとしているのであれば、その世界に深く飛び込もうとしているのであれば、他者のことを知る過程で、自分自身がこれまで抱いていた価値観や考えが、大きく変わってしまう可能性がある。場合によっては、これまで信じてきた価値観や考えを、全て捨て去ることになるリスクすらもあるのだ。

真剣に他者と対話をする者は、元の自分のままでは、対話する前の自分のままではいられない。対話を通じて他者に出会うことで、自分自身の身体が組み換えられ、変容してしまうのだ。極端な言い方をすれば、もしも対話を終えたあと、自分自身が一切何も変化していなかったのであれば、おそらくそこで経験したものは「対話」ではなかったのかもしれない。

バフチンは理解という行為に対して、「闘い」という強い言葉を使っている。また別の場面では、対話のことを「闘争」と例えている。闘いと言っても、バフチンにとっての「闘い」や「闘争」は、相手を打ち負かすための闘いではなく、お互いが豊かに変化するための闘いだ。しかし彼にとっては、他者と対話し、他者を理解しようとすることは、「闘い」「闘争」のような、力強い言葉を使うにふさわしい営みだったのだろう。

対話とは、やさしくて、あたたかくて、思いやりと共感にあふれた、楽しい空間のことではない。もちろんそのような側面もあるが、本来対話とは、参加する人に一定のリスクを迫るような、非常にハードな側面もあるのだ。私は対話の価値を心から信じているが、対話は実は恐ろしいものだとも思っている。社会学者の上野千鶴子は、「コミュニケーションとは、甘やかな共感などではない。自我を掛け金とした命がけの駆け引きである。それがイヤなら、関係から撤退するほかない。」と語った。対話も、ある意味では「命がけ」の営みである。仮に私が「自分自身が変わってしまうこと」を恐れ、他者と向き合うことを拒否するのであれば、私には対話の場から撤退するという選択肢しか残されていないだろう。

「正当な痛み」を引き受ける

「対話は闘争」だの、「対話は命がけ」だの、少し極端な言い方をしてしまったかもしれない。だが、対話というものが、異なる他者と真剣に向き合い、相手をわかろうとする/理解しようとする営みなのであれば、そこには必然的に、ある種の「暴力性」があるのではないだろうか。
「暴力」と呼ぶと、戦争や犯罪など、他人を傷つけるような行為をイメージする人が多いかもしれない。しかし、私がここで「暴力」と呼んでいるものは、他者と出会う時に不可避的に発生してしまう、根源的な暴力性のことである。精神科医の齋藤環は、コロナ禍に書かれたブログ記事で、人と人が出会うことはすべて暴力であると書いている。

人と人が出会うとき、それがどれほど平和的な出会いであっても、自我は他者からの侵襲を受け、大なり小なり個的領域が侵される。それを快と感ずるか不快と感ずるかはどうでもよい。「出会う」と言うことはそういうことだし、そこで生じてしまう“不可避の侵襲”を私は「暴力」と呼ぶ。再び確認するが、この暴力はいちがいに「悪」とは言えないし、あらゆる「社会」の起源には間違いなく、こうした根源的暴力が存在する。暴力なくして社会は生まれない。

齋藤環(2020)「人は人と出会うべきなのか」

私たちは、私と他者、私と世界を区切るための境界を、それぞれ一人ひとりが持っている。他者と出会い、他者とコミュニケーションをとるということは、それがどんなに悪意に満ちたものであるか、善意に満ちたものであるかに関わらず、私があなたの領域へ、あなたが私の領域へ、接近し、足を踏み入れるということだ。そこには、「他者と他者が出会う」ときに生じる、避けられない暴力が存在する。それが良いとか悪いという話ではなく、そのような暴力性こそが社会の根源であり、コミュニケーションの根源だということだ。

つまり、対話というものは、根源的に暴力なのだ。
衝突を恐れてこれまで議論するのを避けていたテーマに向き合ったり、胸の内に抑え込んでいた葛藤を勇気を出して吐き出したり、そのようなわかりやすく痛みを伴う対話だけでなく、一見和気あいあいと楽しくコミュニケーションをしているようなプレイフルな対話も、そこに他者がいる限り、そこに「他者との出会い」がある限り、その本質は暴力である。

私たちは他者と出会う。他者と出会い、お互いに相手の領域に一歩踏み込み、相手の景色を理解しようともがく。痛みを伴いながらも、粘り強く他者に向き合い続け、ようやく相手の景色を理解できたと感じた時、私の身体はすでに組み換わってしまっており、そこにはもう元の自分の姿はない。私はそれが対話だと考えている。
「異なる他者と出会うことで、自分自身が(他者と共に)変わってしまうこと」。語弊を恐れず言えば、この暴力性こそが、対話の豊かさの正体であり、この暴力性があるからこそ、私たちは自己変容できるのではないだろうか。

先のブログ記事で齋藤は、「私は私の「痛み」を排除したくない。すべての痛みは哲学的に正当/正常である。」と語っている。
他者と真剣に対話するということは、他者との出会いや自己の変容に伴って生まれる「痛み」を引き受けることだ。この痛み自体は異常なものでもなんでもない。他者と向き合うことで発生する、正当/正常な痛みである。他者と共に生きていこうと考える者は、この当たり前の痛みを引き受けて生きていかなければならない。ただやさしさのために、この当たり前の痛みすらも手放してしまうことは、産湯とともに赤子を流すことと同じではないだろうか。この痛みを手放してしまったならば、それはもう対話とは呼べないのではないだろうか。

対話の場をケアし続けるということ

ここまでの話を要約すると、おおよそこのような整理になるだろう。
対話とは、「異なる他者と出会うことで、自分自身が(他者と共に)変わってしまうこと」。そして、他者と出会うことは、根源的に暴力である。その暴力性によって生まれる「痛み」は、正当/正常なものであり、対話に向き合う者/自己の変容に向き合う者は、その痛みを引き受けなければならない。

「対話とは、ただやさしく共感し合うだけの営みではない。対話は暴力と痛みに向き合う命がけの営みなのだ!傷つくことを恐れるな!」

なんだかこれだけ見ると、パワハラ体質の熱血コーチのようで恐ろしい気持ちになってくる。
しかし誤解をして欲しくないのだが、私は決して、やみくもに痛みを引き受け、傷つく必要があると言っているのではない。
対話という営みには、「他者と出会う」という根源的な暴力性がある。ここまでの話と矛盾するようだが、だからこそ、対話の場においては、参加者の「安全」が守られることが非常に重要なのだ。
私たちファシリテーターは、対話の根源にこのような暴力性があることを、絶対に忘れてはいけないし、誰よりもその怖さに自覚的でなければならない。対話の暴力性が、剥き出しの形で暴走しないように、参加者の安全を守るために様々な工夫を凝らしたり、場に生じている力学を慎重に観察し続ける必要があるのだ。

対話の場には、「他者と出会う」ことに伴って必然的に生じる、引き受けるべき「正当な痛み」がある。しかし一方で、そのような対話の本質とは一切関係のない、引き受けるべきではない「不当な暴力」や「不当な痛み」というものもあるだろう。例えば、他の参加者に対して人格攻撃をするような参加者がいたり、マイノリティ属性のある人が抑圧的な空気を場に感じて言葉を封じられてしまうようなケースなどだ。このような事態を防ぐために、ファシリテーターは常に対話の場をケアし続ける必要がある。
ファシリテーターの役割は、参加者が一切なんの痛みも感じないで済む、やさしい無菌室のような空間を作ることではない。
そうではなく、対話の場の参加者が、「他者と出会う」という「正当な痛み」を引き受けることができるように、「不当な暴力」や「不当な痛み」が生じないよう、対話の場をケアし続けること。これこそが、ファシリテーターの重要な役割の一つではないだろうか。
立教大学の中原淳教授は、組織コンサルタント(さしあたりファシリテーターと近い役割だと考えて欲しい)には「コンテナを守る」という態度が必要だと言っている。

コンサルタントによってつくられた、バウンダリー(=境界:引用者注)によって守られている「結界」のような場所を「コンテナ(Container)」と呼ぶこともあります。コンテナとは、「内部にどのような葛藤や混沌が生まれたとしても変形しない堅い容器」のことです。(中略)
人々の間に対話が生まれる場、学び合ったり、変化が生まれたりする場では、その過程で、ドロドロとした葛藤や混乱が生じることがあります。「実は……」という言葉に続いて、これまで表立って伝えたことのなかった思いを吐露したり、これまであえて議論を避けていた問題を直視して話し合ったり……。そのような場をつくるためには、「この場では、どんなことを話しても大丈夫だ」と感じられるよう、「心理的安全性」が守られている必要があります。

中原淳(2023)「人材開発・組織開発コンサルティング(ダイヤモンド社)」

「この場では、どんなことを話しても大丈夫だ」という安心感は、「この場では、どんな葛藤や痛みとも直面せずに済みそうだ」という安心感とは違う。ここでそう呼ばれているのは、「この場では、安心して、正面から他者と向き合うことができそうだ。たとえそこに葛藤や痛みが生まれたとしても。」という安心感だろう(そこには一定の緊張感も含まれている)。対話の場にそのような安心感をもたらすということが、「他者」に向けて最初の一歩を踏み出せるような心強さを感じてもらうということが、コンテナを守り、対話の場をケアするということではないだろうか。

おわりに

エヴァンゲリオンというアニメ作品から、人格形成にまで関わるレベルで深い影響を受けまくってしまっていた十代の頃、私は他者が怖くて怖くて仕方がなかった。
人類補完計画のようにすべての個体が溶け合ったやさしくてあたたかい世界で、誰とも傷つけ合わず、なんの摩擦も経験せずに、痛みも葛藤も感じずに生きていきたかった。他者から否定されることが何より怖かった。二十代のはじめの頃までずっとそんなナイーブな気持ちで生きていた気がする。

気づけばそれなりに歳をとってしまい、自分の中での他者観・対話観も、あの頃とはずいぶん大きく変わってしまった。別に私はたいした人間ではないが、それでも振り返ると、私を成長させてくれたのはいつも、他者との出会いであり、そこで経験した痛みと葛藤だった気がする。今でも他者は怖いし、恐ろしいが、私とあなたの間に境界線(ATフィールド)がない世界なんてこちらから願い下げだと考えるようになった。

他者と出会うことは、本当に恐ろしい。そこで味わう痛みも、今までの自分が否定されるようで、時に耐え難くなる瞬間もある。
でも、私はこの「痛み」だけは、「他者と向き合う」という苦しみだけは(もちろん、それは時に喜びにもなる)、決して手放したくないと考えている。私の痛みは私のものだし、この痛みを引き受けることができる者も私しかいない。たとえ傷つくことがあるとしても、反対に誰かを傷つけてしまい、後から激しく後悔する可能性があるとしても、それでも、私はこれからもずっと他者と出会い続けたいし、そこで悩み、葛藤しながら、一緒に「対話」をし続けたいと思っている。

参考文献

  • 平田オリザ(2012)「わかりあえないことから:コミュニケーション能力とは何か(講談社)」

  • 中島義道(1997)「<対話>のない社会:思いやりと優しさが圧殺するもの(PHP研究所)」

  • ミハイル・バフチン、翻訳:望月哲男、鈴木淳一(1995)「ドストエフスキーの詩学(筑摩書房)」

  • 桑野隆(2021)「生きることとしてのダイアローグ:バフチン対話思想のエッセンス(岩波書店)」

  • 上野千鶴子(2010)「女ぎらい:ニッポンのミソジニー(紀伊國屋書店)」

  • 中原淳(2023)「人材開発・組織開発コンサルティング:人と組織の「課題解決」入門(ダイヤモンド社)」


参考記事



*MIMIGURIアドベントカレンダー11日目の明日は小田裕和さん(danさん)の記事を予定しています。お楽しみに!

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