【随想】街中にタダ(無償)が溢れている(1/7)

 わたしたちが生活を営んでいく中で、商品やサービスを他社から手に入れる場合、基本的にはこれらの対価として一定の金銭を支払う。ほとんど全ての取引がそうであるので、わたしたちは「取引」といえば有償であることを当然と考えている。
 しかし、最近は、一定の商品やサービスがタダ(無償)で提供されるものが少なくなく、いちいち「取引」に「有償」であるか「無償」であるかという冠をつけて説明することが頻繁になっている。
 たとえば、わたしたちがどこぞのカフェに入って、インターネットで探し物をする際、PCやスマートフォンのウェブ閲覧ソフトやアプリを起動し、検索サイトにアクセスし、そのサイトの検索窓に一定の文字列を打ち込んで検索ボタンをクリックする。そうすると、検索結果があらわれ、目的のウェブサイトに進んでいく。この一連の手続きでわたしたちが利用したカフェのインターネット接続サービス、ウェブ閲覧ソフト・アプリ、検索サイトの検索サービス、どれも無償で提供されているのである。
 いま、街中にタダ(無償)が溢れている。
 カフェに入れば、コーヒーや紅茶を飲む。これは有償取引である。ただ、最近のカフェでは当たり前のようにwi-fi(無線LAN)接続サービスが使える。これは、コーヒーや紅茶の料金に含まれていない。その証拠に、たまたま機械の調子が悪く、カフェでこのサービスが使えなかったとしても、コーヒーや紅茶とともに十分なサービスの提供が受けられなかったからといって代金の支払いを拒否したり、店側に払い戻しを求める人はいないからだ。主たる商品であるコーヒーや紅茶は対価を伴った取引であるとの認識が店側・客側の両方に成立しており、wi-fi接続サービスは、付随的なサービスなのである。カフェでかかっている心地よい音楽と同じである。
 しかし、いまはもう少なくなってしまった名曲喫茶では、コーヒーや紅茶の料金におそらくカフェで聞くことができる名曲の数々の聴取料が含まれているはずだ。(やったことはないが)音響機器が故障し音楽を聴けなくなった名曲喫茶は、きっと料金を取らないか、安くしてくれるだろう。名曲喫茶の銘打っているかぎり、そこで聞く名曲もサービスの一つだとの認識が店側・客側ともにあるからだ(つづく)(2022年6月5日記)。

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