【随想】時は金なり???(7/7)

 アテンション市場の競争は、財・サービスの市場の競争と比べても、かなりユニークである。
 コンテンツ提供事業者は、利用者の視聴や享受をめぐって競争しているのだが、ここで展開する競争は、利用者との取引を獲得するために行われる通常の経済的競争とは違う。経済的競争は、コンテンツを視聴・享受するのに一定の対価を支払うことになるが、アテンション市場においてはコンテンツ単位で価格が設定されておらず、個々に利用者が対価を支払うわけではない。サブスクリプション・サービスだとさらに不明確となる。
 したがって、特定のコンテンツへの支持は、対価の支払いによるのではなく、「いいね」とか、何回そのコンテンツを再生し視聴したかとか、そのコンテンツを視聴することにどれだけ(有限な)時間を費やしたか、ということになる。金銭的な価値によって図ることが困難な「取引」がここに存在する。
 ここで重要になるのは、利用者がコンテンツの視聴・享受に当てる(有限な)「時間」という要素である。有限である以上、なんらかの意味で希少性を持つことになり、それがそのコンテンツの価値を図る尺度となるのであれば、その果たす役割は金銭と同じともいえる。つまり、アテンション市場における「金銭」は、視聴者・享受者の「時間」ということになる。
 こうした捉え方は、無償取引市場に対する評価として合理的にも見えるが、実際に使うとなると、コンテンツを視聴・享受する利用者の余暇時間に選択しうるさまざまなサービスすべてを考慮に入れなければならなくなり、いまだこなれたツールとは言い難い。
 かつてGAFAが提供する無償のサービスに対し、どうにかして市場取引との同質性を見出そうと、これらのサービスへの対価を利用者の「個人情報」と捉える見解が示されたこともあったくらいである。
 「時は金なり」とはよく言ったもので、無償取引が提起している問題群、時間的要素を経済的価値と結びつけることの可否と関連する難儀な主題なのである(2022年12月5日記)。

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