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「メインカルチャー/サブカルチャー」という区分けが意味を成さない時代〜王道の不在と邪道の標準化〜

昨日、弟と氷河期世代のエンジニアの方と梅田で飲んで来たのだが、飲み屋談義レベルでありながら実に鋭く深い視点の充実した語りができていたと思う。
やはり、世代を超えて作品について意見交換し合えるというのはいいなと思うし、弟の縁で初めて出会ったその人は芸術に対して確かな感性と理解度があって刺激的だった。
もっとこういう充実した語りが出来る人がいないものかと思ったくらいであり、単なる作品の良し悪しのみならず色んな大衆芸術の流れや歴史についても語り合えた
その中で特に興味深かったのは「今は音楽にしろアニメ・漫画にしろ映画にしろ、多様化し過ぎていて何がメインで何がサブカという区分けが意味を成さない」という意見である。

特にこの数年で私が強く抱いていた違和感の中身を適切に言語化してもらえて腑に落ちたわけだが、でもこの感覚って今のZ世代・α世代の人たちには共有できない感覚だと思う
やはり何でもそうだけど、その世代にしか同じ感覚を共有できない、あるいは所有権を主張できない文化は間違いなく存在している。
例えば私は1985年生まれのプレッシャー世代、いわゆる「最後の昭和世代」なのだが、ギリギリ「メインカルチャー/サブカルチャー」という区分が有効に機能したのは私たちの世代までであろう
弟たちゆとり世代より下になるとこの区分というか定義が崩れ始めて、サブカルチャーだったものが逆に主流になり、メインだったものが寧ろサブに置かれるようになった。

ではここで「メインカルチャー/サブカルチャー」とは何か?をまず明確に図式化して、改めて本来あるべき「文化」なるものについて論じてみよう。

よく使われるメインカルチャー/サブカルチャーの分布図を作ってみたが、今ほとんどの人が享受し語っているところの芸術はほとんど下半分の「大衆芸術」と呼ばれるものだ
少なくとも20世紀から台頭して来た映画・漫画・アニメ・特撮・萌え・オタクといわれるあらゆるメインカルチャー・サブカルチャーは下半分のどれかに属するものである。
その中から更に一般向けとマニア向けに区別するとこうなるわけだが、ここに入れ忘れていたがSMAPと嵐は間違いなく右下の「大衆向けメインカルチャー」になるだろう。
あるいは「ドラえもん」「ちびまる子ちゃん」「クレヨンしんちゃん」「ドラゴンボール」「名探偵コナン」辺りのような国民的漫画・アニメもここに入る。

対して、左側はいわゆるかつて「オタク向け」「アキバ系」なんて蔑称で呼ばれるほどのニッチなジャンルだが、例えば富野由悠季や庵野秀明は間違いなくこちらの部類だろう
ファンの方々は「え?富野や庵野だって世間的な知名度はあるじゃん」という反論が来そうだが、ここで大事なのは「一般受けしやすいか否か」ということである。
確かに富野が作った「ザンボット3」「ガンダム」をはじめとする「リアルロボット」やその精神的後継者である庵野の「トップをねらえ!」「新世紀エヴァンゲリヲン」は知名度も人気も高い。
しかし、それらは本来「マジンガーZ」「ゲッターロボ」のような王道のメインとなったロボアニメに対する脱構築・反形式として始まったものであり、カウンターとして作られたものだ

「エヴァ」にしたって、あれが衝撃足り得たのは90年代前半の子供向けロボットアニメとして勇者シリーズ・エルドランシリーズ・SDガンダム・アナザーガンダムがメインに存在していたからである。
そうしたメインのロボットアニメ文化に対する反形式として「ガンダム」以上の脱構築を目指して作られたのが「エヴァ」だった訳であり、あれはあの時代じゃなければ誕生しなかった。
それに富野や庵野はあくまでも黒澤明や宮崎駿、手塚治虫のように主流となる雛形を作り上げた人たちではない「既存の形式に対する叛逆」の人たちだからこそ今のマニア人気と地位を勝ち得ている
だからファン層もディープなオタクが必然的に多くなる訳であり、少なくとも私たちの世代まではギリギリこうした「何がメインで何がサブか」がはっきりと区別されていた。

例えばジャンプ漫画にしてもそうだが、私たちの世代には必ず「ドラゴンボール」「スラムダンク」「幽☆遊☆白書」がゴールデンで放送されていて、それが共通言語となっていたと思う。
毎週ジャンプを読みアニメを見て「今週の展開凄かった」とか語っていたし、例えば女子であればそれは「美少女戦士セーラームーン」がそうだったのではなかろうか。
男女共通で語れる・盛り上がれるものといえばそれこそスーパーファミコンのマリオや90年代後半のポケモンなんかもそうだし、ああいうのは間違いなく90年代を原体験として生きて来た人たちの共通言語だった
まだインターネットなんてものがなく、いわゆる「ネットミーム」なるものが存在しないテレビが影響力を持っていた時代だからこそ、こういう「共通言語」は有効に機能していたのだろう。

しかし、これがインターネットが徐々に台頭して来た弟たちゆとり世代から少しずつ崩れ始め、ジャンプ漫画でいえば「ONE PIECE」「NARUTO」「テニスの王子様」あたりから崩れ始めた。
例えば「ONE PIECE」は今でこそ「ドラゴンボール」に匹敵するメガヒットコンテンツになったが、連載当初は私も含めて「海賊が正義」というコンセプトに反感を持った人も少なからずいたと思う。
「NARUTO」にしたって王道の忍者漫画と見せておきながら回を追うごとに話が複雑化して湿度が高くなっていくし、「テニスの王子様」に至ってはまさかの流川楓くんタイプの陰キャ主人公である。
特に「テニプリ」の越前リョーマのピカレスクロマンを地で行く感じは「デスノート」の夜神月や「コードギアス」のルルーシュなどの、いわゆる「ダークヒーロー型主人公」の開祖ではなかろうか。

これら「ポスト黄金期」とでも呼ぶべき時代になるとテレビからネットに、そして深夜枠からゴールデン枠にという形で「サブから始まったものがメインに」という流れが多くなってくる。
それこそ嵐にしたって「はねトび」にしたって元々は深夜枠で放送されていたニッチなサブカルのジャンルに属していたものが最終的にゴールデン枠のメインに昇格していったという流れだ。
ただ、00年代までは何だかんだ「メインはメイン」「サブはサブ」という認識が根強かったし、いわゆるニコニコ動画・YouTubeもあくまで「アンダーグラウンドなオタク文化」の一部だったと思う。
ひろゆきも述懐していたが、ニコニコやYouTubeなんて設立当初は「違法動画アップロードサイト」なんて揶揄されるほどの無法地帯であり、とても日の目を見るような感じではなかった。

ところが、その図式が崩れ始めたのが2010年代からであり、この時代に入るとむしろサブカルチャーだったものが日の目を見るようになり、逆にテレビがメインとしての機能性と役割を喪失する。
その典型というか事例の1つとして挙げられるのが2011年に起こった「照英コラ画像事件」なるものがそれであり、インターネットで発症した妙な弄りが拡散されて最終的に本人に知れ渡ることだ。
渦中にいた人はご存知だと思うが、2011年当時の2chでは「照英が泣きながら〇〇している画像ください」というコラ画像が大量に流出していた。
そしてその流れに便乗するように「ギンガマンOPで自重できていないギンガブルー、照英」なる動画が投稿され、いわゆる「自重できていないシリーズ」として人気を博する。

そう、OPと「ギンガマン」本編の素材を使って無限ループに5分くらい繰り返されるパロディの動画だが、何が恐ろしいといってこれを公式側が認知しているということだ。
照英はもちろんギンガレッド役の前原一輝や作曲家の佐橋俊彦までもが巡回済みなのだから凄い時代になったものであり、私としても正直当初は戸惑いしかなかった。
まさかネタ要素になる部分が一切ない「ギンガマン」という作品をこんな弄り方する愚者が居たのかと逆に感心した次第であるが、投稿者本人は私と同じ世代であり90年代戦隊の大ファンを公言している。
正に「愛があるからこその弄り」というやつだが、いわゆるネット初期にはやったフラッシュ動画の「宇宙刑事ギャバソ」の発展版みたいなものではないだろうか。

そしてその流れはYouTuberの台頭と芸能人のYouTubeへの天下りという流れで決定的なものとなる、ついにメインカルチャーだった人たちがサブカルチャーに降りてきたのである。
今のYouTubeならびにそこで台頭してきたYouTuberは私に言わせれば「日の目を見てしまったサブカルチャー」であり、本来日の目を見ない筈のものたちに光が当たった感じた。
以前に述べた「今のジャンプ漫画の主人公たちは全員アムロ・レイや碇シンジみたいなネガ出しまくりの陰キャばっかり」というのも結局はこの流れの延長線上にある気がする。
例えば孫悟空のような「オラワクワクしてきたぞ」タイプやルフィの「海賊王にオレはなる」みたいな苦難を乗り越えた先にある光を見ようという上昇志向がかつてのジャンプ漫画の主人公にはあった。

今はそんな主人公をほとんど見なくなった、「呪術」の虎杖にしても「ヒロアカ」のデクにしてもやはり根っこがビビリな陰キャだし「チェンソーマン」のデンジに至っては「おっぱい揉みたい」しか動機がない。
それこそYouTubeで流行っている「スカッと」系や恋愛系でも主流になっているのはオタク属性の強い陰キャ主人公であり、陽キャはなぜか「ウザキャラ」として噛ませ犬扱いされることが多くなった。
そして何より私がその「サブとメインの逆転」を痛感したのは私よりも下の世代が全く愛のない「ドラゴンボール」批判をしているのを聞いた時のことであり、悪い意味であれは「隔世の感」を覚えた瞬間である。
いうまでもなく「鬼滅」で私にウザ絡みしてきたまぐのことであり、彼は「ドラゴンボール」を「強さのインフレしか誇るところのない薄っぺらい作品」「孫悟空はヒーローとしても戦闘狂としても中途半端」と言っていた。

本当に「ドラゴンボール」という作品を見てその程度しか感じ取れない心根のさもしさに憐憫の情がないわけではないが、Z世代以降にとっては「ドラゴンボール」の何が凄いかがイマイチ伝わらないらしい
まあただそれも読む世代が違えば違う意見もあっていいとは思うので全否定はしないが、これもやはり「サブとメインの逆転」が起こった結果のことなのかと思うと奇妙な流れではある。
以前から何度か述べているが、今はネットミームも含めて「エントロピーの増大」が起こりすぎていて、何が主流で何が傍流なのかという区別が意味をなさない時代なのかもしれない。
「鬼滅」だってそうだろう、あれも本来はポスト黄金期のジャンプ漫画に対する脱構築としてカウンターとして作られたサブなのに、アニメ化とコロナ禍が重なってメインの象徴みたいになってしまった。

ただ、それは逆にいえば王道とも呼ぶべき新時代の原初的ヒーローの不在であり、さらにいえば邪道と呼ぶべきダークヒーロー・アンチヒーローの標準化という流れを意味しているのではなかろうか。
今の時代こそ、正にこの辺りの「メインカルチャー/サブカルチャーの区分」をはじめとする芸術作品の消費・受容のあり方に対する見直しや再定義を各自で行う必要があると思う。

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