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『天装戦隊ゴセイジャー』のepic21・22から端的に分かる「ゴセイジャー」という作品の愚かしさと罪深さ

ここ2ヶ月、ほぼ「デジモン」関連ばかりを語ってきてもうそろそろ「デジモン」はひとまず落ち着いても良いかなあと思ったので、そろそろ本分であるスーパー戦隊シリーズについて語るとしよう。
ブログの引越しと削除も完了したわけだし本腰を入れて何を語ろうかと思ったわけだが、折角なので普段だったら絶対語らないであろう『天装戦隊ゴセイジャー』(2010)について語ってみる。
とはいっても、当然私がこれまで書いてきた評価をご覧頂いている読者の方々はお分かりだと思うが、罷り間違っても今回は「褒める」のではなく「批判する」回であろうことはお察しであろう。
したがって、今回はどの程度存在するかわからない当該作品のファンにとっては辛辣な語りとなるので、引き返すならこの時点で引き返すことを当方は推奨する

現在放送中の「ブンブンジャー」が近年では稀に見るレベルの高い作品ということ、そしてそれに呼応するかのようにYouTubeで『激走戦隊カーレンジャー』『烈車戦隊トッキュウジャー』が同時配信されているのも私にとっては有り難い限りである。
もちろん、その中には優れた作品ばかりではないものまで同時配信されており、その1つがこの『天装戦隊ゴセイジャー』なのだが、私は本作を今改めて見返そうなどということは全く思わない。
しかし、どうやらXをはじめとするSNS界隈の反応を見てみると、どうやら少しずつではあるがいわゆる「擁護派」というべき人たちも増えているようであり、それ自体は別段構わないことだと思っている。
問題はその擁護派の言い分が「ゴセイジャーはシンケンジャーとゴーカイジャーという人気作品・名作に挟まれたから過小評価されている不遇の作品である」という訳の分からない擁護の仕方をしていることだ。

「ゴセイジャー」がつまらない作品であることと「シンケンジャー」「ゴーカイジャー」が名作であることは全くの別問題であり、「ゴセイジャー」が当時から批判されてきたのは単純に作品自体が微塵も面白くないからである。
スーパー戦隊は仮面ライダーやウルトラマン、ガンダムとは違って「ジャッカー」から「バトルフィーバー」の間にあったわずかな休止期間を除いて作品を一度たりとも切らさずに地続きで走ってきたシリーズだ。
だから作品自体の面白さという絶対的評価とは別にシリーズの前後の作品や10年単位で歴史を俯瞰した時のその作品の位置付けといった比較・検討を踏まえた相対評価もまた他のシリーズものと違って頻繁に起こりやすい。
「ゴセイジャー」擁護派の言い分は詰まる所作品単体で見た時の面白さという「絶対的評価」では面白いのに、それを前後の作品や10年単位で俯瞰した時の「相対評価」では不遇で埋もれてしまっているという訳だ。

バカたれ!そんな訳あるか!

擁護派(右猫)を詰める否定派(左猫)

最初に書いたが「ゴセイジャー」がつまらないのは最初に書いたようにそもそも作品単体での絶対的評価が芳しいものではない事に起因するのであって、その原因を外側の相対的評価に求めるのはお門違いである。
本当に「ゴセイジャー」が面白い、酷評されているのが不思議だというのであればどこがどう面白いのか?それこそ前後の「シンケンジャー」「ゴーカイジャー」にも引けを取らない名作と言えるのはなぜか?を説得的に論証してみれば良い
ところが、SNSで見る「ゴセイジャー」擁護派はこの部分に関して見ても物凄く曖昧な抽象論・印象論の領域を抜け出ない具体性を欠いた意見しか出せない、批判している人たちの方はどこが良くないのかを明確に分析できているのに。
そう、擁護派も本当はわかっているはずだ、「ゴセイジャー」は決してそこまで全面に押し出して擁護すべき作品ではないことくらい……少なくとも私が知る中で「ゴセイジャー」の再評価に貢献できたという説得的な論証に出会ったことがない。

そんなノイジーなマイノリティーなど無視しておけば良いではないかという向きもあろうが、SNS大戦国時代である令和の世の中ではそんな悠長なことを言っていられないので、私も改めて「ゴセイジャー」に関して見直している。
本当に驚く程にクオリティーがお粗末過ぎるのだが、わけてもメインライター・横手美智子が担当しているはずのpic21・22はどちらも不快感を催すレベルで酷くて、擁護派はこんなのの何を面白いと思っているのか私には理解不可能だ
その中でも特にエリがパティシエの1日体験をする話を描いたepic21の話は当時も今もまともに見れたものじゃなく、エリのやったことは今風にいうならそれこそZ世代の若者たちがやっている飯テロ・バイトテロでしかない
まずケーキ屋に上司・店長と呼ぶべき人がいないのも不自然なのだが、何よりもこれだけお店に大損害といえるような材料の無駄遣いをした挙句にレシピ通りにやらず、出来上がったケーキそのものも決して見栄えがいいとは言えないゲテモノだった。

どう見てもゲテモノにしか見えないエリの手作りケーキ
大量の小麦粉を敵にぶっかけるという前代未聞のバイトテロ

挙句の果てにそのお店の材料の1つであるサラダボウルに入った小麦粉を敵にぶっかけるというとんでもないことをやっていて、これだけやらかしておきながら何の懲罰もないのがあからさまに不自然過ぎるのである。
横手美智子は本作に限らず「ゲキレンジャー」でもそうだったがメインライターになった途端に馬脚を露わしてしまうようで、「幻想的」と「非常識」を履き違えた手抜き同然の「子供騙し」にすらなってないものばかりだ
アグリの農業話もそうだが、本作は全体的に無意識の内に飲食店系列を含む社会そのものに対してバカにしているような描写が多く、それを「見習い」だから「研修」だからという設定で誤魔化しているようにしか見えない。
要するに入りたてのDQNバイトのメンタリティーで作られているのが「ゴセイジャー」であって、そんな意識の低さではとてもじゃないが10年・20年と語り継がれるような名作・傑作が生まれるわけがないだろう。

何より私が不愉快に感じたのはこんなクソみたいな話に「エレガント(優雅な)」などという大仰な単語を使っていることであり、バイトテロ同然のことをしているエリのどこに「エレガンス(優雅さ)」があるというのか?
そもそも1・2話のパイロットの段階からエリに関しては天使以前にそもそも人間として真っ当な良識が欠落しているとしか思えないのだが、一番の原因はさとう里香自身がエレガンスとは正反対の女優であることもエリの不愉快さに拍車をかけている。
今では芸能界を引退して母親になったさとう里香だが、「ゴセイジャー」の放送中も含めて当時の彼女の業界でのキャラはビジュアルは可愛いが中身は珍回答を連発する「おバカタレント」であり、全く品のある女優ではなかった。
実際「クイズヘキサゴン」での彼女の立ち居振る舞いに何度辟易させられたかわからないし、それこそ女優のレベルで比較するなら今やカンヌの常連でもある高梨臨や品のあるアイドルの森田涼花には到底及ばないレベルである。

そのことは「ゴセイジャー」の作り手の間でも有名だったのか、実際に「ゴセイジャーVSシンケンジャー」の記者会見では同じ関西出身の森田涼花と比較され「下品な大阪のおばちゃん」と弄られていたという。
それを知っているから余計に「エレガント」という単語を軽々しく使っている作り手の無神経さに腹立たしさを覚える他はなく、こういう小脇のエピソード1つを取っても「ゴセイジャー」は粗悪品と言わざるを得ない
続く22話にしても単独主義を貫くゴセイナイトとチームワークを大事にするゴセイジャーとの価値観の相克・対立とそこからの和解を描くというベタな話にも関わらず、話の骨子や台詞回しも含めたセンスが皆無である。
特にゴセイナイトがゴセイジャーに庇われざるを得ない状況を無理矢理に作り込んで安易に「集団=最強、単独=最弱」みたいな図式に持って行っているのが、結局本作の作り手は根本的に戦隊を舐めているのが一目瞭然だ。

だが、これはまだ日笠プロデューサーが担当している前半だからまだマシな方であって、epic32で「俺イック」などというビッグマウス、今風にいう「イキリ太郎」とでもいうべき若松豪に交代してからは余計この品性のなさに拍車がかかる。
彼のこの品のなさはそれこそYouTubeの名物スカッと系チャンネルの1つ「トラブルバスターズ」に出てくる勘違いをこじらせた新人DQN社員のそれであり、当時はその勘違いぶりから非難轟々であった。
なぜこんな振る舞いをしていたのかはわからないが、過去の経歴などから想像するに若松Pはおそらく髙寺成紀プロデューサーの俺様然とした立ち居振る舞いを真似していたのではなかろうか。
実際、『激走戦隊カーレンジャー』『電磁戦隊メガレンジャー』『星獣戦隊ギンガマン』はいずれもファン人気が高く、中でも「ギンガマン」は後世に与えた影響も含めて「チェンジマン」「ジェットマン」と並ぶレベルの例外的な大傑作である。

しかし、これらの作品が何の裏付けや下地もないところからまるで突然変異のように生まれたものだと若松Pが錯覚していたのだとすれば、典型的な「生兵法は大怪我の基」からの「鵜の真似をする烏」というやつだ。
要するに客観的かつ適切な自己評価に基づく分相応の立ち居振る舞いをすればいいのに、そこを弁えずに例外的な天才の真似事をして痛い目に合ったという典型が「ゴセイジャー」であり、若松Pをはじめとする作り手の無知蒙昧だったのである。

誤解を恐れずにいえば、自分で誤解を招くような評価をしておいて何だが、『星獣戦隊ギンガマン』は間違ってもスーパー戦隊シリーズを代表する作品などでは決してない
確かに「メガレンジャー」までの歴史の蓄積を踏まえて後世に影響を与えたスーパー戦隊のニュースタンダード像であることに間違いはないが、王道的と見せておいて実は相当に強烈な個性を有する例外的な作品である。
「チェンジマン」「ジェットマン」もそうだが、シリーズ物の中には稀にこういう時代性・対象年齢・性別・国籍といったものを優に超えた普遍性を兼ね備えた傑作が誕生することがあるが、その背景には目に見えない「外力」が働いている
そんなこともわからず、安易にこれらの例外的な傑作を戦隊シリーズのお手本などのように評価することは絶対避けなければならない、このことは今年の元旦に親友の黒羽翔さんとも語り合ったことだ。

スーパー戦隊シリーズを代表するお手本というべき人気作なんぞは現在配信中の『百獣戦隊ガオレンジャー』や『獣電戦隊キョウリュウジャー』辺りにでも任せておけばいいだろう。
私は全く擁護できないが、シリーズの中にはこういう数字稼ぎが目的の客寄せパンダみたいな作品だって必要であることはわかるし、『炎神戦隊ゴーオンジャー』もそういう作品である。
また、単純に個性が強烈で尖っているというだけなら『超獣戦隊ライブマン』『激走戦隊カーレンジャー』辺りで十分だが、これらの作品はA(名作)にはなり得てもS(傑作)にまではなり得ない

それから脚本家の作家性という点においても、例えば井上敏樹の代表作というのであれば『超光戦士シャンゼリオン』『仮面ライダー555』辺りでも任せておけばいいし、小林靖子の場合は『未来戦隊タイムレンジャー』『侍戦隊シンケンジャー』に任せておけばいい。
単純な脚本家の作家性だとか演出がどうとかプロデューサーの個性がどうとか、そういったレベルを遥かに超えて「作家性」では収まりのつかない例外性と普遍性を兼ね備えて作品それ自体が持つ力に打ちのめされる感覚に襲われるものこそが真の傑作だと私は思う。
『星獣戦隊ギンガマン』は間違いなくその中の1つであり、ヒーロー像そのものは理想的かつ王道的であるが、同時にその作品でしか表現し得ない掟破りも多々あるので迂闊に真似してしまうと大火傷を負ってしまう作品であるのは事実だ。
そんなこともわからずにその10年に1度のレベルで現れる例外的なS(傑作)・SS(殿堂入り)の安易な真似事をしてしまったF(駄作)がこの『天装戦隊ゴセイジャー』というわけである。

擁護派も細胞レベルではその事実をわかっているからこそ、「普通に面白い」とは言えたとしても「10年に1度のレベルで現れる例外的な神がかりの傑作」だなんて口が裂けても言えないのではないか。
そりゃあそうだ、野球でいうところのイチロー選手の振り子打法や大谷の二刀流、テニスでいうところの錦織圭のエアKなど例外的な天才のプレイスタイルがなぜ一般に浸透しないかというのと同じ話だ。
どんなジャンルでも「天才」と世に評価される人たちはそもそもその存在自体が例外的であり、発想や技術などのあらゆる個性が再現性がなく、その人ならではのものであることをわかっていない人は多い。
3月に他界した鳥山明先生も同じことであり、漫画の神様・手塚治虫大先生をして「僕の正統な後継者」と唯一言わしめた天才漫画家も同じことであり、あのレベルの才能は例外的な突然変異であろう。

その意味で、私が最近評価した『勇者エクスカイザー』もまさにそういう「突然変異」のような10年に1度のSS(殿堂入り)だったわけであり、幼少期の原体験としてそれに出会ってしまったことが僥倖なのかもしれない。
90年代は『鳥人戦隊ジェットマン』然り『機動武闘伝Gガンダム』しかり『勇者警察ジェイデッカー』然り、そして『ガメラ2レギオン襲来』然り『星獣戦隊ギンガマン』然りその10年に1度のS(傑作)・SS(殿堂入り)が乱立した例外的な年代といえる。
それこそフリーザ編までの『ドラゴンボール』も正にそういうものだったし、押井守の「パト2」なんかも正にそういうものであり、正に「神々が集いし奇跡的な年代」であったかもしれず、人外魔境の領域でもあった。

「ゴセイジャー」はおそらくその90年代への憧憬を2010年に再現しようと目論んだ作品の1つだったわけだが、そんなものを人工的(意図的)に作り上げるのは不可能な話である
そんなこともわからず安易に人外魔境に足を踏み込んで大ゴケしてしまったという事実と向き合わずして本作を語ることはできない。
それを承知の上でなお「ゴセイジャー」を面白い作品だと説得的に論証できようものならやってみるが良いが、それはたけしの挑戦状ばりの無理ゲーであることだけは断言しておく。

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