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【緊急】某似非インテリの衒学的芸術論にご注意を!触らぬ神に祟りなし!【ブロック】

いやー、久々に香ばしいやつと出会い、めちゃくちゃ面白かったので、緊急だが記事を書かせていただくこととする。
年○読○○、本名「〇〇××」なる還暦を迎えられた無駄に元気と知識量が生き甲斐となっている似非インテリ、すなわち「大人ぶった賢しらなガキ」が「ストローマン(藁人形)論法」を用いてきたので、フォロワーの皆さんには近づかないこと推奨
ああだこうだと理屈つけてるが、やってることは結局読書量マウントを基にした人格攻撃であり、自分の気に入らない人はまともに質問にすら答えず論点ずらした挙句の人格攻撃という「成功者になり損ねた劣化ひろゆき」みたいなことをしてくる人に出くわすとは。
まあ読書量は間違いないだろうし映画・アニメ批評の文体などを見るに知識はそれなりにあるのだろうが、「論理的」と自称したり「批評文」と書いたりしながらその実はろくすっぽ裏付けの取れていない「客観に見せた主観」のオンパレードである。

その証拠に私が富野監督とゴダールの記事について書いた時に議論の不備を少し指摘しただけで私を「無知なオタク」「活字オンチ」などという小学校低学年でももう少しマシな言い方ができるだろうという位に幼稚な言葉でレッテル貼りをしてくる。
まあ正直この手の詭弁に関しては私自身昔から散々巨大掲示板で叩かれた経験もあるし、それこそ去年はラなんとかや鬼滅キッズMというこいつの下位互換みたいな奴にウザ絡みされた経験があるから、今更何とも思わないのだが。
なので適当に遊んでやった後、こういう老害にだけはならないことを誓ったわけだが、それだけ終わるとこっちが泣き寝入りしているようなので、折角なら少しだけこいつの書いた文章のごく一部を例に少しだけ遊んでやろう。

これは完全におふざけで、真正面からまともにやり合うつもりは一切ありません
まず1つ目が「真マジンガー」というロボアニメ評なのだが、ロボアニメのファンほど擁護なんてしない、中には「作品ですらない」とまで扱き下ろす人が多い中でこの人はS(傑作)扱いしている。

詳細は記事をご覧いただきたいのだが、曲がりなりにもスーパーロボット大戦シリーズなどでお世話になっている、こいつ曰く「無知なオタク」の私でも「それはさすがにねえだろ」と言いたくなる文言があった。

昔、よく指摘されたように、「どうして、あの少年がロボットのパイロットなの?他にもっと優秀な大人がいるでしょう」とか「毎週、子供に命懸けの戦いをさせるのは如何なものか」とか「どうして敵は、同時に世界のあちこちに出現して、1体しかない正義のロボットを困らせたりしないの?」とか「絶対的に強いはずの正義のロボットが危機に陥った時、どうして都合よく新兵器が登場するの?」とかいった、そういう「当たり前の疑問」に対し、「いや、そういうものなんだよ」「そういうお約束なの」で済ませてしまうジャンルだったのであり、それで何も問題はなかったのである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n579ea5646b27

曲がりなりにも今川監督を擁護する立場の人間が自らロボットアニメというジャンルに対する無知蒙昧ぶりを露呈させてしまう、明らかに私も含むロボットアニメファン・オタクの怒りを根こそぎ買ってしまうであろう衝撃の発言だ。
そもそも「「いや、そういうものなんだよ」「そういうお約束なの」で済ませてしまうジャンルだった」などと済ませてしまうこと自体がロボットアニメというジャンルに対する冒涜であるという他はあるまい、年間凄まじい数の本を読んでいるくせに。
この人は東映版「マジンガーZ」「ゲッターロボ」をはじめとする70年代から脈々と続いているスーパーロボットアニメを一部の作品除いてまともに見たことがないのだろう。
それこそスーパー戦隊シリーズでいうならば「ドンブラザーズ」評を語ってみせた時に「様式美」なんて雑な言葉でセンスのない無知な批評をしていた早稲田大学の禿頭の准教授と同レベルの発言である。

そもそも「マジンガーZ」から「機動戦士ガンダム」に至る70年代のスーパーロボットアニメで少年が主人公である理由に関しては基本的に「開発した天才科学者の息子・孫である」というのがお約束であった。
「ゲッターロボ」に関しては特に石川賢の漫画版を読めばわかるが、過酷な恐竜帝国との生存競争に勝ち残る為にはゲッターのとんでもない機体スペックに耐えうる超人的肉体と鋼の精神を持った若者が必要だったのである。
また、「超電磁マシーンボルテスV」ではそれだけではなく来るべきボアザン星人との戦いに備えて1年かけて剛健一をはじめとする5人の仲間に徹底した訓練を受けさせて戦いに臨んでいたのだ。
氏が富野監督とゴダールの記事で触れていた「ザンボット3」の20話では「どうして、あの少年がロボットのパイロットなの?他にもっと優秀な大人がいるでしょう」というツッコミに対する回答として「プロの軍人に使わせればいい」という話も出していた。

しかし該当する記事で氏はその部分に対する細かい言及を失念しており、「きちんと描かれている筈のお約束」すら無視して「そういう「当たり前の疑問」に対し、「いや、そういうものなんだよ」「そういうお約束なの」で済ませてしまうジャンル」などと宣ってしまう。
まあこんなことを本人に面と向かって指摘しようものなら「お前のような無知なオタクはそういうところばっか無駄に覚えてんだよな」などと言って煙に巻き論点をずらして手前味噌な屁理屈を展開していたのではないか?
また、S(傑作)の理由として今川監督の「大ボラ吹き」、要するに樋口真嗣監督が言うところの「過剰なまでの外連味」なのだが、その演出の良し悪しは散々当時から語られてきたことであり、はっきり言って批評として古いし今更感が強すぎて情報の価値が低すぎる
それに今川監督は個人的に猛批判を食らった「ガンダムSEED」の福田監督やメカデザイナーの大張監督と同じで「演出」はそれなりでも脚本や構成に関しては無知に等しいので、きちんとしたシリーズ構成がいないとまともに機能しないのも有名だ。

それから、今川監督擁護派としてOVA「ジャイアントロボ」でもまた以下のような舐めた発言をしている。

それは、「料理対決マンガ」を原作とした同名アニメ『ミスター味っ子』で『審査員が(※ 料理の)あまりの美味さに巨大化したり変身したり目から光線を放ったりと豪放で奇天烈な表現を繰り広げた』りした結果、「今川だからしょうがない」というオタクスラングを生んだほどの、やりたい放題の個性満開ぶりを示し、かの「ガンダムシリーズ」では初となる「格闘対決もの」の『機動武闘伝Gガンダム』で総監督を務めて、その個性を生かして、完全に独自のガンダムワールドを作り上げた人である。一一と、そういうイメージだ。
なにしろ、『ミスター味っ子』も『機動武闘伝Gガンダム』も視ておらず、ほとんど間接的な情報によるイメージなので、正確なものではないかもしれないが、おおよそ、そのような印象を持っており、その段階では、この監督には、ほとんど興味がなかった。「この人は、格闘モノが好きで、ロボットアニメ的な派手な演出で遊ぶ人なんだな」という、きわめて「軽い」印象であり、一方、私は出崎統ファンの「ハードドラマ」派であったから、「軽い印象」の強かった今川泰宏監督には、ほとんど何の期待もしていなかったのである。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n1549fd4905da

全てが間違いだという訳でもないが、「味っ子」「Gガン」をまともに見てなくて又聞きの知識とイメージだけで語ったなどと、私を含む該当作品を見たファンなら激怒すること間違いなしの無知蒙昧を晒しているという、とんだ恥さらしだ。
中でも「Gガンダム」に関しては明らかに今川監督の力量だけではなく、ロボットアニメを70年代からずっと支えてきた五武冬史氏・山口亮太氏をはじめとした名脚本家やその後「コードギアス」で総監督を務める谷口監督など演出陣も気合が入っている。
そして何よりもこの「Gガンダム」自体が氏の擁護している富野監督の『聖戦士ダンバイン』『機動戦士Zガンダム』で演出面で薫陶を受けて頭角を表し、その才能を評価された今川監督を富野自らが抜擢したという事実をご存知ないのだろうか?
そんなことすら知らずに「かの「ガンダムシリーズ」では初となる「格闘対決もの」の『機動武闘伝Gガンダム』で総監督を務めて、その個性を生かして、完全に独自のガンダムワールドを作り上げた」などとよくも憶測で抜け抜けと言えたものだ。

そもそも「Gガンダム」は単独で見るといきなりガンダムシリーズらしからぬ熱血スポ根のロボットプロレスが突然変異として誕生したように思われるが、その前年に「疾風!アイアンリーガー」というS(傑作)でそういうロボットアニメが作られていた
しかも同作品においては「代理戦争としてのスポーツ」という「Gガンダム」で年間を貫く物語の核になる題材も確立しており、それらの事情が複合的に絡み合って「Gガンダム」というあの快作(怪作ともいう)が誕生したのである。
氏は私のコメントを「オタク的知識」などと揶揄していたが、その「オタク的知識」すら欠けた適当な主観とネットで適当に拾ったとしか思えない信ぴょう性の薄い情報による曖昧模糊とした雑語りは辞めていただきたい
何より今川監督擁護派という割には「味っ子」「Gガン」も、そして「鉄人28号」すらも見ないで語るなどとは片腹痛い、それ即ち「いちごのないショートケーキ」を「イチゴの乗ったショートケーキ」と称して語る詐欺にも等しい行為だ。

それに作品そのもののクオリティーとは直接関係のない制作側の裏話を勝手に作家論・作品論としてすり替えるのも批評として適切な態度とは言えない。

DVDの販売が終わって、サブスクに移行した結果として、現在ではこれらの「コメンタリー」は封印されたも同然だから、あえてそれに対し、批判的に言及して「寝た子を起こす」ようなことは、誰もしないのだろうが、しかし私は、ここでその問題点をあえて指摘した上で、この「今川泰宏監督・ホモ説」の、真の意味を、「作家論」であり「作品論」に昇華して、語っておきたいと思う。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n1549fd4905da

「今川監督ホモ説」に関しては彼に限らずそもそも勇者シリーズで有名な谷田部監督や高松監督も含む90年代アニメを支えた監督たちは全員言われていたし、特に高松監督なんて『勇者警察ジェイデッカー』で主人公に女装をさせる回すらある。
それを今更のように鬼の首を取ったかのように論じられているのが野暮だし、いわゆる最大の美点として語られている「父と息子の終わらない物語」に関しても、それ自体は別に私の心に刺さるようなものでは微塵もなかった。
OVA「ジャイアントロボ」に関しては「2コマでよくここまで頑張りましたね」というのが適切な評価であり、むしろそれ以外に映像作品としての価値はないに等しく、別段物語のテーマだとか親子の情愛だとか今川監督独自の個性でもなんでもない
それを「無知なオタクによるオタク的な消費」だと言うなら勝手に言えばいいが、大して中身のないものを変に忖度して有り難がることこそ、こいつが私に差し向けた「無知なオタク」そのものの行為でなくて何だというのだろうか?

そもそもこの人は年間の読書量が売りなようだが、要するに典型的な「学校で勉強したことしかわからない」という、典型的な「十で神童十五で才子二十過ぎればただの人」というやつじゃなかろうか。
映画評論家・蓮實重彦がもっともつまらないと扱き下ろしている「批評家を自称するスノッブ(俗物)」そのものであり、知識「量」だけは無駄にあるが、知識「質」はお世辞にも高いとは言えない。
なにせロボアニメという日本アニメの限られた狭いジャンルの比較的有名な今川泰宏監督の作品群ですら突っ込みどころ満載の文章を書いているのだから、こんなものを誰がまともな批評として読めようか?
ロボアニメですらこれだから他の映画批評などもさして変わらないであろうし、それこそ特撮でいうなら「シン・仮面ライダー」も書いていたが、これもまともに読めたものじゃない。

本作『シン・仮面ライダー』でも、本郷猛はその「非暴力平和主義」と「平和を守るための暴力」との間で葛藤し、最後は苦渋の選択として、後者を引き受けることを決意する。

https://note.com/nenkandokusyojin/n/n254b386f42a7

これに関しては間違いじゃないが、そんなテーマに関してはすでにテレビシリーズの「BLACK」「クウガ」「龍騎」辺りで語られ尽くしたものであって、令和の世にそんなものを庵野風リブートという形で見ても大した売りにならない。
しかもそこから右翼・左翼だのといった政治的思想に絡める手前味噌な論の展開は辟易してしまう、映画はあくまで「娯楽」なのであって「思想」でも「社会」でも「心理」でも「学問」でもないのだから。

人が映画から学ぶものは画面に描かれているものではない。また、画面の背後にあると想定される作者の精神を学ぶのでもない。視線に可能なことは、せいぜい画面を見ることでしかあるまい。

蓮實重彦. 監督 小津安二郎〔増補決定版〕 (ちくま学芸文庫) (p.14). 筑摩書房.

実際、私が批評家として賛美はしないが信頼はしている蓮實重彦や淀川長治はそれぞれの映画評論において作品の向こう側に何か特別なものを見出すようなアホな評論をしなかった。
もちろん「ハリウッド映画史講義: 翳りの歴史のために」のような「映画と社会」「映画の歴史」に関する考察を「作家論」「作品論」とはまた別に書くことはある。
しかしそれは批評とは全く別の動きとしてやっているものであり、なおかつ彼の場合は当時の業界事情にも深く精通していたからこそ段違いの知識量で書くことができた。
それに比べてこのお粗末な批評とすら言えない評論じみた何かをお書きになっているこの方はそういう情報の精査や「くまなく画面を見る」という必要最低限の努力すらしていない

こんな穴だらけの詭弁を弄する輩にいくら詰られようが痛くも痒くもない、彼が私に対して行ったのは建設的な批判ではなくレッテル貼りと人格攻撃に名を借りたブーメラン発言による自身の怠慢と無知蒙昧の露呈なのだから。
彼は「批評に新しいも古いもない」と言っていたが、どんな作品にも賞味期限があるように、作品の批評に関しても賞味期限というものがあり、時代によって新しい批評が形成されてしかるべきである
それができるものこそが真のS(傑作)なのであって、既存の評論と似たり寄ったりな内容しか語られないのであればそれはもうその作品自体の耐用年数が過ぎており、普遍性や独自性がなくなった証に他ならない
実際、映画に精通していてそいつよりよっぽど信頼できる親友Fは蓮實重彦の批評を「あれはもう古臭い。今の時代に作家性だけでは語れない」とバッサリ切り捨ててすらいた

批評のために作品があるんじゃねえ、作品のために批評があるんだ!

批評家の存在意義なんて所詮は人を作品に誘うための呼び水であり作品鑑賞の場を提供する存在に過ぎないという謙虚さを忘れてはならない。
その人の書いた文章にはそういう「批評することの恐れと謙虚さ」が感じられず、なんぼ知識量があろうがそんな文章が刺さるわけがないだろう。
そんなごく当たり前の事実すらもわからないような人が批評家とか論理的とか軽々しく言わないでいただきたいものである。

まあ今後一切関わらないであろうから、彼で遊ぶのはここまでとさせていただこう。
猫ミームのヤギみたいなやつって本当にいるんだな。

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