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2000年代後期に流行っていた『CLANNAD』『あの花』辺りの「感動系」アニメって一体何だったのだろうか?

そういえば最近あまりアニメを見なくなって久しいが、現在放送中の『ドラゴンボールDAIMA』が意外なことに結構面白い、ドラゴンボール原作至上主義者であることを抜きにしても。
少なくとも「鬼滅」「推しの子」「チェンソーマン」なんかよりは数億倍面白い、変にウジウジしたネガティブやお気持ち()みたいなのに走らずコミカルさを維持しているところが素晴らしい。
大まかな構想や設定は原作者の故・鳥山明大先生が遺した物だからというのもあるが、個人的には「原作終了後」のIFものとしてはGT・超のいずれかよりも断然面白かった
超みたいに設定いじりやキャラ崩壊みたいなこともなかったし、GTみたいに「いやなぜこんなしょぼい戦闘シーンにした?」みたいなのもないし、きちんと原作の設定・世界観をリスペクトしてくれている。

特に良かったのはやはりベジータ超サイヤ人3という、サービス終了したゴミクズダメアニメ「ドラゴンボールヒーローズ」のベジータ超サイヤ人3で出されていたものをここで出してくれて嬉しかった。
髪型も戦闘スタイルもぶっちゃけ原作の孫悟空やゴテンクスの超3よりも断然良くて、何がいいと言って髪の毛が長すぎなず、また垂れるのではなく逆立つのが何よりベジータらしくていい。
ライオンや馬の鬣(たてがみ)じゃあるまいし、そもそも勝率も燃費もめちゃくちゃ悪かったから(「GT」「超」でも微妙な扱いだったし)、個人的な超3のイメージは2までと比べて好きではなかった
しかし、今回の超3はそんなイメージを払拭してくれるからとても気持ちよかったし、何より原作までと違ってきちんとベジータが噛ませにならず強者として描いてくれているのが誇り高い。

おい見ているか小山高生さんよ、あんたがZ時代に散々酷い扱いにして毛嫌いしていたベジータは今や立派に優遇されて活躍見せてるぜ

それこそ『ONE PIECE』もワノ国が面白すぎてあそこがピークだった気がしてならず、それ以降はどうにもパッとしないしょぼい展開と設定の説明・紹介ばかりで「物語」になり切れてない。
だからどうしても「DAIMA」の方が面白いし、ぶっちゃけあとはしょうもない過去作のリメイクか異世界転生みたいな「なろう系」っぽいのばかりで創意工夫が欠けていてつまらん。
いつから日本のアニメはこうも弱体化したのか……と言いたいところではあるが、私はぶっちゃけ今はアニメだけではなく特撮も漫画も、日本の娯楽が勢いや力を失い始めていると思っている。
何せ国家にも企業にも力がないし優秀な人材もいないんだもの、そりゃあ年食っちゃうし鳥山明や手塚治虫のような独自の世界観・物語で世界を魅了できる天才作家が本当にいなくなった

ぶっちゃけ今のアニメの中で見れるのなんてせいぜい「DAIMA」と「新テニ」の準決勝ドイツ戦のアニメばかりで、あとはどれもパッとしない没個性のものばっかりだ。
そんなことを思いながら現在アニメーションの歴史を個人的に紐解いているのだが、いわゆる00年代後期〜10年代初頭に流行った「泣ける=感動系」アニメって一体何だったのだろうか?
私が大学生の頃、確か世にいう「アキバ系」なるものがブームとして台頭し、「萌え」という概念が社会現象として出た時期で、ちょうどニコニコ動画の勃興期だったと思う。
そんな中で、私は今は亡き高校時代の親友・H(Fとは違う)から「CLANNAD」「智代アフター」のPS版を借りてプレイしたこともあったし、アニメも見たことがある。

いわゆるギャルゲー発の「感動系」と呼ばれるアニメだが、あの時期は「ハルヒ」もそうだったのだがいわゆるそういう「萌え」的なものが異様なほど賑わっていた。
そんな時代が2010年前半まで続き、それこそノイタミナ枠の『あの日見た花の名前を僕たちはまだ知らない』もそんな文脈の中で出た「感動系」の話だったと言える。
まあ今の「推し」という文化も理解できないのだが(アイドルじゃあるまいし)、ああいう「若者の青春」というものの本質は若年層にはそれなりにヒットするものだろう。
だが、私はKEY作品にしろ「Fate」にしろ「あの花」にしろ、あの頃にオタクたちが盛り上がったアングラな「萌え」のサブカルの魅力は全く理解できない

そもそも「CLANNAD」なんて身も蓋もないことを言ってしまえば、自堕落な男子高校生が悪友とバカやりながら生活してたら、なぜだか美女どもが寄ってきて惚れた腫れたを繰り返して最終的には苦難()を乗り越えて幸せになりましたってだけの話だろう。
原作ファンから反感や顰蹙を回想だが、こういう「オタクの妄想を実現した話」というのは「ガンダム」然り「エヴァ」然り一定数それを求める層がいるのもわかるし、KEY作品も「美女に囲まれたい」という妄想の具現化である。
「なろう系」がヒットしているのと似たようなものだが、別に好き嫌いはその人の価値観や趣味があるだろうから否定はしないのだが、だからと言って理解しようとか歩み寄ろうなんて気は私には全くない
元々住む世界が違うのだろうとも思ったのだが、それだけの問題なのかというと、最近はどうもそうは思えなくなっている

以前にもこんな記事を書いたことがあったが、私はいわゆる「陰キャ」と呼ばれるようなネガティブな人たちの葛藤・苦悩なんてものとは全く縁のない人生を送ってきたことが大きいのだろう。
よくよく考えてみれば、私は昔からそうだったが「考えなし」では決してないが「悩む」ことを昔からしたことがほとんどない、というか「悩む」ことの意味が理解できない
そりゃ学生時代は人間関係に苦しんだことや「しんどい」と思ったこと、「何か物足りない」と思ったことはあるが、大人になって社会人経験を積んで色々経験してきた今、所詮そんなものなんて一過性のちっぽけなものだと思うようになった。
だから、今「感動系」と呼ばれる時代のアニメを見てもメッセージとして何も感じるところはないし、そもそも感情で衝動的に行動した結果上手く行った試しなんて世の中にほとんどないことも私は知っている。

よくこんなことを言っている馬鹿がいる、「碇シンジの繊細な感情や高尚な感情の揺れ動きを「陰キャ」の一言で雑にレッテル貼って済ませるな」とかっていう人。
キラ・ヤマトや炭治郎に関しても同様だが、何故だかそういう豆腐メンタルレベルの奴らに肩入れして庇う・擁護する人がいるのだが、「だから何?」で済む話である
そもそもドラマでよく挙げられる人間の「心」が試される場面というのは本来「誇り」「尊厳」「美意識」といった哲学レベルの人としての「あり方」が問われる場面のことだろう。
しかし、これがたとえば戦時中ならばともかく、来年以降淘汰される人と生き残る人で二極化している、平和ボケした今の日本でそんな極限の状況などほとんどない

それに、どうせ悩んだところで結局は神経を擦り減らすだけで物事が解決に向かうわけではないのだから、私は「悩んでる暇があるならさっさと行動せんかいボケ」と突っ込みたくなってしまう。
まあそんなスタンスでいるせいか、時々「お前には人としての心がないのか?」なんて言われることもあるが、心がないわけじゃなく「苦悩なんて時間とエネルギーの無駄」と知っているだけだ。
苦悩や葛藤といった心情の揺れ動きとやらは別に個人の自由だから勝手にやればいいが、「じゃあその問題は解決に向かうのか?」ということを突き放して客観視できないのである。
客観視できないから目の前の出来事に対して無駄に焦ってぐるぐると空回りを繰り返すだけだし、いわゆるカウンセリングでいうところの「傾聴」なんてできた試しがない。

悩みや愚痴なんて永久の眠りについてから墓場で好きなだけ言えばいいんだし、そういうくだらないことで足を引っ張って波動を下げてくる奴は邪魔である、一緒に居たくない。
だからだろうか、その時期のそういうアニメも含めて私はウジウジと苦悩・葛藤を繰り返す系の作品や主人公というものがどうにも退屈すぎて見られないのだ。
悩むことが好きな人もいるから別に好きなだけ悩めばいいが、悩んだところで現実が変わるわけではないのだからいい加減に被害者ヅラや偽物の共感を示すふりはやめろと思う。

中途半端な上っ面の優しさなんてかえって毒、人を傷つけるだけだぜ。

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