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映画『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』(2001)感想〜デジタルワールドを愛しデジタルワールドに愛されなかった初代とデジタルワールドの寵愛を受けた大輔たちの青春残酷物語〜

さて、連日続いている「デジモン」熱ですが、本日も負けず劣らず感想・批評の方を出していきましょう。
ということで本日取り上げるのは『デジモンアドベンチャー02 ディアボロモンの逆襲』(2001)についての感想・批評をば。

評価:S(傑作)100点中100点

おそらく並み居るデジモンファンの中で本作を「ウォーゲーム」を超える傑作として評価する人はきっと私くらいのものであろうが、ただあくまでも本作は決して単品で評価してのことではない。
本作は位置付けとして「02」本編から25年後の結末、そして最新作の「02 THE BEGINNING」を繋ぎ合わせるために大変重要な1ピースであり、本作があるかどうかでこの「デジモンアドベンチャー」シリーズの評価が決まる。
これは無印からではなく「02」からデジモンに入り本宮大輔とブイモンが今風にいう「推し」となり自分のヒーロー観に多大なる影響を与えてくれたからこそという今でも冷めずに滾り続ける思いを抜きにしては語れない。
無印に思い入れのある人はおそらく本作を酷評するであろうし、逆に「02」から入った人は真逆の評価をするという、「見方」ではなく「見え方」が非常に重要な短編映画ではないだろうか。

私は初代アンチ兼02ファンのVテイマー信者という立ち位置にいたからこそ、本作で露呈した「青春残酷物語」と「イカロス神話」の構造が盛り込まれている美しさに感動した。
その上でラスト5分の「世代交代」なんて生易しい言葉では片付けられない無印組と02組の決定的な埋められない価値観の溝というか断絶のようなものまで強調されてしまっている。
果たしてどれだけの視聴者がオメガモンの敗北=無印組の死と引き換えに強調される02組の、特に本宮大輔という男の圧倒的ヒーロー性が醸し出す頼もしさに惹かれたであろうか。
あの絵の美しさと劇構造としての美しさと苦々しさが絶妙に噛み合いそうで噛み合わないことも含めて、私は単なる「無印の続編」というに止まらない「02」の最大の美点を見た。

したがって、今回書く感想・批評はいわゆる一般的な評価とは全く異なる偏ったものになることは予め書いておく、特に盲信的な過激派の無印信者は間違いなく私の敵だ。
だから真っ向からそれに立ち向かう覚悟・決意の表明であると同時に「02」をこそ最も愛する所以が本作にはこれ以上ないほどまでに詰まっているのである。


デジタルワールドを愛しデジタルワールドに愛されなかった初代組の傲慢さ

本作でまず目につくのは何と言っても初代組、分けても八神兄妹と石田兄弟の傲慢さであり、テレビ本編でも目立っていた古参の老害ムーブが執拗なまでに描かれている。
もはや捲土重来を期してかつての先輩としての威厳を取り戻さんと前半で戦う彼らが戦う様は確かに表面上は頼もしそうだが、私から見れば滑稽なことこの上ない。
初見では「何で尺の半分以上を無印組が出しゃばってんだよ!?てめえら現役から退いたOBOGなんだから黙って大輔たちに出番譲れや!」と思うこと間違いなしだ。
しかしこれは作り手が意図的に仕組んだ罠であり、いわゆる「持ち上げて落とす」というえげつないやり方で作り手は初代組を主役から全力で引き摺り落としにかかったのである。

そもそもスポーツに例えると今回の太一たちがやってることは相当な横暴というか職権乱用みたいなものであり、テニスに例えると「既に現役引退したのにちょいちょい目立たんとする松岡修造・杉山愛・クルム伊達」にしか見えない。
考えてもみて欲しい、そもそもテレビシリーズの時点からしてそうだったが、八神太一たち無印組は紋章を解放に使い現役から退いて2年半が経っており、完全体以上の進化が出来にくくなっている。
出てきたところで大輔たち現役組の助けになるどころか足を引っ張るようなことしかできず、完全体や究極体になれたとしても最前線で冒険していた頃程の力を出すことはできないのだ。
これは正にテニスでいうなら現役引退した松岡修造らが現役の錦織圭や西岡良仁らを差し置いて「俺も久々に公式戦に出るぜ」と言いながら出しゃばってくるようなものである。

しかも相手は一度倒したディアボロモンだからなどという何の根拠もない気休めを理由に「俺たちは勝てる」という「ダニング・クルーガー効果」の「バカの山」という状態に陥ってしまった。
正に「麒麟も老いては駑馬に劣る」を地で行くような展開が今回の太一たちだったわけであり、もはや「ただの合体」になってしまったオメガモンには前座としてしか使いどころがない
まあその前の映画「デジモンハリケーン上陸」で究極体になれたはずのセラフィモンとホーリードラモンがかませ犬として瞬殺されたこともある意味では本作への伏線だったと言えないものないのだが。
ともかく、無印の頃から私にとっては苛立ちの種を通り越した癌細胞でしかない八神兄妹と石田兄弟はディアボロモン相手にあれだけイキって侮った挙句に無残な敗北を味合わされてしまうのだ

これがとても皮肉なもので、太一たちは本来デジタルワールドからしたら「異物」でしかなく、だから夏の冒険の後には去るしかなかったしデジタルワールドの安定のために紋章解放をするしかなかった。
所詮は「Stayしがちなイメージだらけの頼りない翼」でしかない太一たちは自分たちが異常なまでに固執している「強さ」「力」「選ばれし子供」という自分たちを着飾っているものが本作で全て捥がれてしまう。
「ウォーゲーム」では「最後の希望」と言わんばかりのベジット並の神々しさを讃えた最強の象徴であったオメガモンの両腕が捥がれる形での無残な敗北という形でそれが示されたのだ。
全てはこの1シーンのために存在していたわけであり、所詮はカリスマが一代で築き上げたものなど脆くも崩れ去ってしまい、だから空に「しっかりしなさい!」とケツを叩かれてしまっている

大人びて見えるはずの太一とヤマトは心が折れてしまった瞬間に武之内空に叱り飛ばされてしまう脆弱な「子供」であることが示されたといえるだろう。
当時から物議を醸した太一・空・ヤマトのカットに決して他意などない、彼らも所詮は「等身大の中学生」という地金を晒したということなのだ。

デジタルワールドの寵愛を受けた大輔たち02組の明るさと前向きさ

そんな風にデジタルワールドを愛しながらデジタルワールドに愛されなかった太一たち無印組とは対照的にデジタルワールドの寵愛を受けた大輔たちの明るさと前向きさが対照的であった。
因みにデジモンシリーズ専門家と呼んで差し支えない大山シュウという方の本作の感想に関して、特に大輔の項目の部分でこう書かれていた。

でも考えてみたら、ピンチ要因の大半は彼の行動にあったような気がしてきてしまいます。
あせった彼が京にゲートを開かせなかったら、クラモンを大量に呼び込むような事態は避けられたかもしれないわけですし。
おまけに交通まひの最中パートナーとはぐれてしまい、走ってお台場に向かわねばならなくなって到着の遅れを招いている。
そのうえ結局ネット世界での戦いは大輔が行かなくても何とかなっちゃってるので、とんだ空回りです。

http://www4.plala.or.jp/ozzy/red/02_record/02m_b.html

これは以前に書いた「02」の簡易感想で書いたことと併せてもはや公式なのではないかとおもうのだが、大輔たち02組こそ本当の意味で「選ばれし子供」だったのではないだろうか。
少なくとも大輔と賢に関してはそうである、「選ばれし子供なんて特別でもなんでもない」とあっさり蹴り飛ばし「ラーメン」の一言で悩める子供達の福音にあっさりなってしまったのだから。
それに「Vテイマー01」しかり「クロスウォーズ」しかりPSP「デジアド」しかり「ラスエボ」しかり、大輔の方がよっぽど太一よりもあっちこっちの並行世界に引っ張りだこで活躍している
流石は「熱いバトル起こせ」という歌詞が似合うデジモンシリーズの真の主人公なだけあるし(大輔の本質をちゃんと認めて褒めたのは親友の賢とVテイマーのタイチだけ)、だから本作でも諦めない。

言語化するのが難しいのだが、改めて構造として残酷でもあり美しくもあるのは大輔たち02組は「勇者は僕の中にいる」という言葉に象徴されるようにスタートの時点で「デジタルワールドの救世主」である。
太一たちが一夏の冒険で必死になって固執しやっと辿り着き、それでも最終的には「大輔たちがいるから大丈夫、お前たちは要らない」と言わんばかりに蹴落とされてしまう位置に大輔は居続けるのだ。
その分彼らに課されるものも実は軽く見えて実はとんでもなく重かったりするのだが、普通なら「重い」と感じるものを彼らは「どんと来い!諦めるな!」であっさりひょいと乗り越えてしまう。
正に「才能ある者は努力する者に敵わず、努力する者は楽しむ者に敵わない」を地で行くのが無印組と02組の大きな差であり、無印組がどんなに努力や苦労をしてもたどり着けない境地に大輔たちはいる。

現に後述する最後の戦いで、大輔と賢は子供たちにとって最大の希望にして奇跡の象徴と言わんばかりに花道を開けられ、子供達の声援を受けながらブイモンとワームモンの元へ一直線に向かった。
そう、最終回で悩める子供達の福音となって見せた大輔たちは本作で逆に子供達の声援を受けており、本作が終わった後も25年もの間デジタルワールドを後世に開け渡せるように奮闘するのである。
太一たちには青春の「挫折」を見せて残酷なまでに翼をもがれてたイカロスみたいな「」を見せるのに、大輔たちは世界中の子供達が用意した舗装された善意の道を一直線に走り抜けるのだ。
単なる「世代交代」という言葉に収まりきらない青春残酷物語こそが本作最大の特徴なのだが、まあこれ悪く言ってしまえば結局無印組のやらかしたツケを02組が支払うという理不尽な構図である。

オメガモンの敗北の苦さすら軽々と飛び越えてしまうインペリアルドラモン

本作のそんな青春残酷物語は決して人間ドラマとしてだけではなく絵の運動としても表現されており、絶望に打ちひしがれる太一とヤマトの上をインペリアルドラモンが軽々と飛び越えるシーンは本作の真骨頂だ。
大輔たちは太一たちが心の奥底に抱えている闇の深さや絶望を全く見ることなく、尊敬していた憧れの先輩が「しっかりしなさい!」と叱咤される場面を決して目にすることはない。
それどころか「諦めるな!」の無邪気な優しさがかえって残酷さとなって太一たちにグサグサと突き刺さるわけであり、かつて自分たちが立っていた舞台にもう自分たちは立つ資格がないと突きつけられたのだ。
果たして太一・ヤマト・空の3人は自分たちの苦さすらも踏み台にして軽々とというか悠々と飛び越えていきアーマゲモンに挑むインペリアルドラモン・大輔・賢の天才チートコンビをどう見ていたのであろうか?

「大輔たち、頼もしくなったなあ」という信頼か、果たして「くそ!俺たちだってもっとできたのに!」という悔しさか……いろんな情念が入り混じるこの場面は今日に至るまで賛否両論である。
ネットで色々な考察を読んでいて新鮮というか面白かったのは「(アニメの)八神太一は本宮大輔に対して嫉妬や羨望があったのではないか?」「太一は大輔と違い「ヒーロー」になり損ねた「英雄」である」という意見だ。
これには私自身も虚を衝かれた感じで、確かに大輔は太一やヒカリに対して無邪気な憧れを向ける一方で、いざ自分が戦いの場になると思考を切り替えて目の前の状況に全力投球ができてしまう。
一方でそんな大輔に対し(特に前半では)割と辛辣な態度を取っていた太一・ヒカリ・タケル辺りはそんな大輔に対してきっと胸中複雑な想いであったことは想像に難くない。

大輔がヒカリに対してミーハーだったりタケルに一方的に嫉妬したり太一に憧れを向けたりするのは所詮可愛いレベルである、何故ならば表面に顕在化する形で示される想いは自分でコントロールできる
しかし、太一・ヒカリ・タケル辺りのいわゆる「光」の側に立つ人間たちは一方で「闇」の怖さを暗黒進化という形やパートナーデジモンの死・ウィザーモンの死という形で知りトラウマを植え付けられていた。
あまつさえ太一に至っては幼少期に自分の無茶のせいで妹を死なせかけて母にビンタされたこともあるわけで、余計に大輔のことを潜在意識のレベルで深く嫉妬・羨望の眼差しを向けていたのかもしれない。
自分たちがあの一夏の冒険で苦労して手に入れた勇気・友情・希望・光のあらゆる要素を持ち、さらにはそれを超越した「奇跡」にまで選ばれているのが大輔だ、しかも相手の本質を見抜く直感力にまで優れている。

そんなデジタルワールドが求める救世主・ヒーローとしての条件を生まれながらに持ち合わせている彼の隣に立つことが許されるのはエリート天才少年の一乗寺賢とそのパートナーデジモンのワームモンしかいない。
だからこそ彼らは本作で本格的に「皇帝」から先を超えた「パラディン=聖騎士」にして「ロイヤルナイツの始祖」という「殿堂入り」の領域へ昇華されたのではないだろうか。
こうまで無印組をギャグという形ではなくシリアスな形でかませ犬扱いしたのは本作が唯一無二だが、大輔たちと太一たちで決定的に違ったのは「万策尽きても諦めずに戦えるかどうか」にある。
そこが全体的に薄暗い照明の中に照らされた一筋の奇跡の輝きであり、このシーンを持ってより25年後がなぜあの様な結末になったのかを裏付けているといえるだろう。

大輔たちはエターナルヒーローにしてデウス・エクス・マキナ

本作と最新作「02 THE BEGINNING」までを統合して出た本作の結論は本宮大輔たちはデジタルワールドにとっても子供達にとってもエターナルヒーローにしてデウス・エクス・マキナであるということだ。
太一の持つ「勇気」が「傲慢」「暴走」と表裏一体なのだとしたら、大輔の持つ「奇跡」は「ご都合主義」と、そして賢の持つ「優しさ」は「残酷さ」と表裏一体ではないだろうか。
以前に大輔のことを「映画出禁にしないとバランス崩壊する主人公」としてスレが立つほどなのだが、本作の扱いがまさにそれを決定づけてしまった節がある。
まあ大輔に限らず「Vテイマー01」の八神タイチ然り「デコード」の四ノ宮リナ然り、ブイモン系テイマーは予めこの宿命を背負わされた子供達として描かれているのだが。

本作で大輔たちインペリアル組を前半で活躍させなかったのもそういう理由からだろう、大輔たちがあそこで出しゃばってしまうと冗談抜きにして5分で解決してしまうからだ。
何せ最新作の映画でも大輔が大和田ルイという名の碇シンジを見て彼の本質を悟った瞬間に「俺が母親と話してくる」という解決策を最短で導き出して救済している。
そしてそんな大輔が動き始めると賢や京たちもようやく動けるというのが02組のあり方であり、中心に本宮大輔とブイモンの存在ありきなのだ。
だから大輔はニューヨークで屋台ラーメンという一番大衆的かつ身近な形で人間とデジモンを繋げられるし、メンバー一の金持ちにあっさりなってしまう。

賢も警察官として、京はスーパーハッカーな主婦として、そして伊織は弁護士として大成していくわけだが、彼らは自分の日常に身近なもので成功している。
一方で太一たちはお世辞にも大輔たちの様なエターナルヒーローというわけではない「絶望に打ちひしがれる英雄」だから、政治家・ファッションデザイナー・宇宙飛行士という形なのだろう。
デジタルワールドから愛を向けられているわけではない彼らは必死に努力をして固執して夢を叶える形でしかデジタルワールドと関われないし、彼らの中には「対話」という発想がない。
だからというわけではないが、太一たちが真の意味で救われるには大輔たちの存在は必須であり、そりゃあ太一よりも大輔の方が先に結婚して子供を作ってしまうのも納得ではある。

その後のドラマCDでも大輔の暗黒進化を描いたとて闇落ちの要素が一切ないことが証明されず、大輔たちのD-3でしかデジタルゲートを開けないこともその証明であろうか。
やはりアニメ版「デジモンアドベンチャー」シリーズは大輔たちニューヒーローがいなければ太一たちも救われないし完結しない、単なる「世代交代」の作品ではないのである。
だからこそ「ウォーゲーム」に比べて過小評価されがちではあるが、なればこそ私は本作をたとえ無印ファンを敵に回してでも前作を超えるS(傑作)として擁護し続ける。


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