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名という呪

西洋では子に親や先祖と同じ名をつける(そして、キリスト教信者でなくてもキリスト教の聖人の名をつける)ことは割とよくあることのようで、チェコでも時々、おじいさんとお父さんと息子がみな同じ名前というケースを見聞きする。

たとえば、わたしのパートナーの従弟の名はJanで、彼らの祖父の名もJanだ。Janはチェコで最も多い名のひとつだろう。わたしにはチェコ人の同僚が4人いるが、そのうち2人の名もJanだ。人が多く集まる場所で「Honzo!(Janという名の人につけられるニックネームの呼格)」と大きな声で呼びかけたら、いったい何人の人がこちらに顔を向けるだろう。

多くの人に聖人の名がつけられるということは、そこに何かしらのアーキタイプが存在するという風に見ることができるかもしれない。たとえば、Janという名を持つ人たちに共通するアーキタイプがあるとして、それはもしかすると、歴史上の有名な“Janさん”たちの共通点を探すことによって発見できるのではないか。

また、あらゆる意識は型によって共鳴するという考えに基づくと、聖人と同じ名を持つというのは、その聖人が強く打ち出した要素に共鳴する/それを共鳴によって呼び寄せるということでもある。名とは人が地上で受け取る最初の呪であるという言葉を思い出す。この場合の「呪」とは、いわゆる呪いのことではなく、形のないものに対し第三者が言葉を用いて形を与える行為を指す。

そんな風に見ていくと、名そして名をつけるという行為は非常におもしろいものだ。自分を観察する際に、自分と同じ名を持つ人のことを同時に観察してみるのも一つの手法かもしれない。自分がどのような意識に共鳴しやすい/引き寄せやすいのかも、名に共通する傾向を観察することで見えてくるのではなかろうか。

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