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李舜志著『ベルナール・スティグレールの哲学──人新世の技術論』の「はじめに」を公開します!

 本年(2024年)2月に刊行しました新刊書、『ベルナール・スティグレールの哲学』の序にあたる部分を公開します!

 著者の李舜志氏は、法政大学社会学部の准教授。専門分野は教育学ですが、哲学・思想の先端的な思索を学生たちの学びのために、そして具体的な社会実践に結びつけて展開するしなやかさをもった書き手です。

 本書は博士論文であるベルナール・スティグレール論をもとに、学生や一般読者にも理解しやすく、噛み砕いて完成した本。ポスト構造主義のさらに後の世代の一角を代表する思想家スティグレールは、ハイデガーやデリダのみならず、科学哲学者ジルベール・シモンドンの遺産を引き継ぐ〈技術〉の哲学者として著名ですが、日本では主著『技術と時間』3巻は訳されているものの、その仕事の全体像が十分に紹介・検討されているとは到底いえない状況です。

 本書は、スティグレールの個々の著作の詳しい紹介に取り組むものではありませんが、この思想家の歩みの芯をなす部分について、著者自身の言葉で伝えることに力点を置いています。文字の発明からAIの支配にいたるまで、人類の生は〈技術〉によって代補され、記憶され、呼び起こされてはじめて文明として蓄積されるようになりましたが、技術はギリシャ以来、つねに両刃の剣をなす〈パルマコン〉(薬=毒)的な存在でした。技術のテーマ系を学問による批判的反省の対象とすることが、環境危機にある現代世界にとっていかに本質的な営みか、本書の記述の端々から感じ取っていただけるに違いありません。

 リーダブルな本書の探究を通じて、スティグレールの切り拓いた世界がより多くの読者に共有されますように!


『技術と時間』『象徴の貧困』『無信仰と不信』などの著作で知られる哲学者B.スティグレール(1952〜2020)。「人新世の技術論」とも称されるその壮大な思索は、産業資本主義と自然環境の危機に立ち向かう理論的・実践的プロジェクトであると同時に、技術や過失と向き合わざるをえない人類の歴史を根源から問い直すものだった。膨大な著作のエッセンスをわかりやすく紹介する日本初の入門書!

https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-13038-0.html


はじめに


 本書は、フランスの哲学者ベルナール・スティグレール(Bernard Stiegler 1952〜2020)の哲学を取りあげる。スティグレールは現代においてもっとも重要な哲学者のひとりである。その哲学は、技術を哲学の対象のひとつとして見なすのではなく(つまり技術哲学を展開するのではなく)、まさに哲学の対象そのものと見なすところに特徴がある。スティグレールにとって技術とは、政治や経済、教育といった数ある分野のうちのひとつではなく、それらを包括するテーマなのである。

 技術について考えることは、人間、社会、そして地球について考えることに等しい。スティグレールはそう考えた。そこから、地球環境だけでなく、人間の精神にとっても危機的な局面をむかえている現代社会を治癒する方途を探った。その壮大なスケールは、「人新世(ひとしんせい/じんしんせい)の技術論」と称されるべき試みである。

 本書の目的は、スティグレールの哲学から、技術とは何か、そして私たちは技術とどう付き合っていけばいいのか、考えることである。ただしスティグレールは多産な哲学者であり、単著だけでも20冊に及び、さらにさまざまな社会実験にも取り組んでいるため、その仕事の全体像を把握するのは容易ではない。またスティグレールの著作は、目下の課題への応答として書かれたものが多いため、その思考の道筋は曲がりくねっており容易に要約を許さない。

 したがって、本書は「人新世の技術論」という軸を据えることによって、スティグレールの議論を読み解いていく。それを通して、技術とは何か、私たちは技術とどう付き合っていけばいいのかという問いに答えることにしたい。

 まずはスティグレールの経歴を簡単に紹介することで、人新世の技術論という看板の妥当性を示そう(1)。

 スティグレールは電気技師の父と銀行員の母との間に生まれ、フランスはイル=ド=フランス地域圏、ヴァル=ドワーズ県のコミューンであるサルセルで育った。電気技師であった父ロベールの影響の下、哲学よりも早く技術に興味を持ったスティグレールは、高校生のころから政治・哲学的な事柄に関して唯物論的な見方をとるようになる。そして1968年を過ぎてから共産党に入党するが、スターリニズムへの拒否感から1976年に脱退する。

 その後いくつかの職を転々とし、トゥールーズでジャズ・バーを開く。このときジャズ愛好家である哲学者ジェラール・グラネルと出会う。しかし経営は厳しく、困ったスティグレールは銀行を襲ってしまう。その結果、銀行強盗の罪で1978年から83年にかけてトゥールーズのサン・ミシェル刑務所に投獄される。監獄の中で過ごした5年の間に、友人であったグラネルの援助を得てスティグレールは哲学に目覚める。

 そして出所後、ジャック・デリダに師事し博士論文を提出する。ユク・ホイによると、スティグレールが刑務所で書いた文章を見たグラネルは「これが君の哲学になる」と言ったらしい(2)。この文章はスティグレールの博士論文に含まれており、論文の審査委員会の一員であったジャン=リュック・マリオンはその部分を独立させて出版することを望んだが、スティグレールはそれを拒否した。この文章は『技術と時間』の第七巻として発表される予定だった。

 その後国際哲学コレージュの研究プログラム・ディレクターや、ポンピドゥー・センターで開催された「未来の記憶」展の企画・キュレーションなどをつとめ、コンピエーニュ工科大学やロンドン大学のゴールドスミス・カレッジで教鞭をとった。

 スティグレールはただ論文を書くだけでなく、フランソワ・ミッテランによる新しい国立図書館の電子アーカイブ化構想を担当し、INA(国立視聴覚研究所)、IRCAM(音響・音楽研究所)の要職を歴任し、ポンピドゥー・センター内にIRI(研究とイノヴェーション研究所)を設立するなど、デジタル革命下で新しい文化的・認知的実践を開発するために活動した。また2005年にはArs Industrialisという産業変革運動を組織する。この団体は、産業資本主義と技術の未来について議論する討論会やシンポジウム、ワーキンググループを組織し、これらの取り組みを書籍やネット上で公開している。またArs Industrialisは、2016年からパリの北に位置する自治体連合プレーヌ・コミューンで「協働型経済」という社会実験を行っている。

 2018年には、国際連盟百周年となる2020年に向けて、人新世の喫緊の課題に対処する新しいマクロ経済モデルを考案し実験するインターネーション(Internation)という組織を立ち上げた(3)。この活動は後にトゥーンベリ世代友の会(Association des Amis de la génération Thunberg, AAGT)に引き継がれた。この会は、気候変動の危機を訴えるグレタ・トゥーンベリや若者たちの呼びかけをうけ、スティグレールと作家のル・クレジオが共同で設立したものである。

 2020年1月にはジュネーブで記者会見を行い、アントニオ・グテーレス国連事務総長に宛てた書簡を発表した。書簡では、今のままでは国家も企業も人新世の課題に対応できないことが指摘され、その理由の分析と、現状を克服するための方途が提示された。その後、スティグレールは自ら創立にかかわったArs Industrialisをトゥーンベリ世代友の会に引き継ぎ、その目的と研究分野を刷新することに決めた。産業資本主義がもたらす危機の克服を目指すArs Industrialisの活動は、トゥーンベリ世代友の会と統合することによって、人新世、科学研究の危機、世代間関係の破壊という文脈の中に位置づけられることとなった。

 以上のように、監獄からはじまったスティグレールの哲学は、人新世の破局的な状況に立ち向かうための理論的・実践的プロジェクトにまで拡大深化した。その根幹には技術がある。ただし、スティグレールにとって人新世とは自然環境の危機だけを意味するのではなく、したがってその技術論も環境保護の文脈に限定されない。スティグレールの人新世の技術論は、自然という制約のなかで技術を駆使し、文化や民族といった集団的生を営むと同時に、この世にたったひとりしかいない「私」として生きる、私たちについての哲学なのである。

(1) スティグレールの経歴については、各インタビュー記事を参照した。
(2) Hui 2021, p. 77.
(3) インターネーションとはマルセル・モースに由来する概念である。モースは、国際主義の発展が領土や文化の特異性を犠牲にしてはならないと提言し、それぞれのネーションが持つ個性を尊重しつつ、諸国家が協調するインターネーションという概念を提起した。


Bernard Stiegler at the "Technology, Space, Reason: Infrastructures of Knowledge in the Anthropocene" symposium for the History and Theory of New Media lecture series on Oct 13, 2016. Co sponsored with the Townsend Center for the Humanities, the Dean of Humanities, and the Rhetoric Department.
(Berkeley Center for New Media / Wikimedia Commons)

◉目次

はじめに

序章 人新世からネガントロポセンへ
1 人新世とは何か
2 エントロピー増大の法則
3 ジョージェスク=レーゲンと技術
4 ネガントロポセンへ

第1章 技術は手段ではない
1 メノンのアポリア
2 テクネーとエピステーメー
3 一般器官学
4 声と記録の「正確さ」

第2章 人間と技術の誕生
1 エピメテウスの過失
2 人類は足からはじまった
3 プログラムの外在化
4 差延と人間の発明

第3章 「私」になること
1 時計と「ひと」
2 個体化とファルマコン
3 心的かつ集合的個体化

第4章 チューリング・マシンと意識の有限性
1 チューリング・マシンの無限の記憶
2 第一次過去把持と第二次過去把持
3 過去把持の円環構造と有限性

第5章 アテンションをめぐる戦い
1 注意の中のテンション
2 第三次過去把持と予期せぬもの
3 希少な資源としてのアテンション

第6章 資本主義の三つの精神
1 プロテスタンティズムの倫理とオティウムの喪失
2 フォーディズムと制作知の喪失
3 文化産業と生活知の喪失
4 六八年五月と資本主義の新しい精神

第7章 自動化する社会
1 ビッグデータと夢の在庫化
2 デジタル上の蜘蛛の巣
3 アルゴリズムによる統治の何が問題なのか

第8章 雇用の終焉、労働万歳!
1 自動化による雇用の終焉?
2 労働の解放、労働からの解放
3 ハッカー倫理による労働の再定義
4 現代のラッダイトたち

第9章 協働型経済
1 協働型経済の目的──ケイパビリティ・アプローチ
2 協働型経済の場所──地域をケアする
3 協働型経済の収入──実演芸術家の断続的収入
4 セーヌ=サン=ドニでの協働型プロジェクト

終章 今を生きるトビウオたちのために
さいごに 

あとがき
参考文献
索 引

『技術と時間』既刊
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-12072-5.html
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-12073-2.html
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-12074-9.html

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