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『ハントケ・コレクション1』 訳者あとがき(服部裕)


『ハントケ・コレクション1』 訳者あとがき

服部裕

ハントケの作品について

 ペーター・ハントケはデビュー当時からきわめて評価の高い作家である一方で、さまざまな物議を醸してきた作家であるとも言える。それはきわめて斬新かつ挑発的な言語表現に始まり、1990年代以降のユーゴスラヴィア問題との関わりの中でピークに達した。その意味で、ハントケが2019年にノーベル文学賞を受賞したのは、訳者にとってはむしろ意外なことであった。またハントケの作品は形式的にも内容的にもかなり難解であり、日本における受容は先学が果敢に取り組んだ十編ほどの翻訳に負うのみである。映画通にはむしろ、ヴィム・ヴェンダース監督の『ベルリン・天使の詩』(1987)の共同脚本家として知られているのかもしれない。以下、ペーター・ハントケの創作全体の概略を記す。

 ハントケは1942年12月6日、オーストリア南部のケルンテン州のグリッフェンという小村で生まれた。スロヴェニア系のオーストリア人である母マリアは、当時村に駐留していた既婚のドイツ兵エーリッヒ・シェーネマンとの間にペーターを身籠ったが、出産の前に別のドイツ兵士であるアドルフ・ブルーノ・ハントケと結婚した。ペーターが実父の存在を知るのは、大学入学資格試験(Matura)を受ける直前のことだった。被抑圧民であったスロヴェニア系の母と侵略者であるドイツ人の父との間にオーストリアで誕生したという出自が、ハントケの創作に少なからず影響していることは明らかである。

 一家は戦後の一時期をベルリンで過ごすが、1948年にグリッフェンに戻る。グリッフェンで小学校に通ったあと、ハントケはタンツェンベルクのカトリック系の寄宿学校を経て、59年からクラーゲンフルトのギムナジウムに通い、61年に大学入学資格試験に優秀な成績で合格する。すでに作家志望だったハントケは同年グラーツ大学に入学し、執筆の時間が確保しやすいという理由で法学を専攻するが、66年に処女作『雀蜂』がズーアカンプ社から出版されることが決まると、即座に大学をやめ、作家活動に専念する。

 事実上の作家デビューの舞台となった「47年グループ(Gruppe 47)」の会合(1966年、プリンストン)のスピーチで、ハントケは戦後世代のドイツ語圏の作家たちの創作姿勢をエスタブリシュメントであると批判し、早くも孤高の道を歩み始める。エッセイ集『わたしは象牙の塔の住人である』(1972)のタイトルに暗示されているように、初期のハントケは意図的に挑発的な表現を用い、既成の文学表現に対して一線を画そうとしたのである。

 ハントケの創作は小説、戯曲、詩あるいはエッセイとさまざまな形式を持つが、初期の作品の中心的主題は、自明と見なされる日常の言語使用を文学的に異化することによって、その異様さと虚偽性を浮き彫りにすることにある。ハントケを一躍文壇のスターダムに押し上げた戯曲『観客罵【1】』(1966)や『カスパー』(1967)は、そうした初期の言語批判的作品の代表作である。自らの意思に従って言語を使用している、つまり主体的に生きていると思い込んでいる近代人は実は既成の言語システムよって操られているのではないか、という懐疑がテーマの中心を成し、観客や読者に自らの現実についての省察を促す。

 ヴィム・ヴェンダースが1972年に映画化した『ゴールキーパーの不安』(1970)以降、『長い別れのための短い手紙』(1972)や『幸せではないが、もういい』(1972)などの70年代の作品には、ゆるやかなストリーが与えられ、伝統的な語りの形式が採用されるようになる。特に創作中期の幕開けを思わせる『ゆるやかな帰郷』(1979)と『サント・ヴィクトワール山の教え』(1980)は、散文ではあるが詩的な表現によって自然や事物を瞑想的に捉えることで極端に内的な省察を進め、それによってナチズムという拭いがたい災厄の歴史を克服すべき肯定的な文学世界を創造しようとしているように読め【2】(ただし、作品の中でナチズムに関連する事象や人名が明確に語られることは決してない)。その後現在に至るまで、ハントケの物語は散文的でありながらきわめて詩的な表現形式に貫かれる。それは、現実世界に対して自律する肯定的な文学世界を描こうとする表現であり、基本的には、もはや初期の作品に見られるような否定的な表現ではない。そこには、自己と現実をネガティブな形象としてしか捉えられず、言いようのない苛立ちの迷宮で苦悩する『ゴールキーパーの不安』の主人公ブロッホや『真の感覚の時間』(1975)の主人公コイシュニクの世界はない。70年代末から80年代にかけて、ハントケが初期のネガティブな言語表現を克服しようとしたことは明らかである。

 肯定的な文学世界を模索し続けていた1991年、ハントケの第二の、そして文学的な故郷とも言うべきスロヴェニアを巻き込んだユーゴスラヴィア社会主義連邦の内戦が勃発する。その停戦直後の96年、ハントケはジャーナリズムが伝えようとしないセルビアの現実を、その風景と名もなき人々の姿を文学的に叙述する。それが、『南ドイツ新聞』に掲載された『ドナウ川、サヴァ川、モラヴァ川、ドリナ川への冬の旅、あるいはセルビアに公正に』である。それを境に、西欧のメディアや知識人の多くはハントケに「親セルビア」の「戦犯作家」というレッテルを貼り、作品の言葉を吟味することなしに、ハントケ文学そのものを否定するようになる。1973年に受賞したゲオルク・ビューヒナー賞を、ハントケが99年に自ら返上した背景には、N‌A‌T‌Oによるセルビア空爆があった。また、2006年には旧ユーゴスラヴィア連邦大統領ミロシェヴィッチの葬儀に参列したため、ハントケは再び激しい非難を浴び、受賞が決まっていたハインリッヒ・ハイネ賞を辞退している。獄中のミロシェヴィッチとの会見とセルビアの人々の記憶を、ハントケは『ダイミエルのタブラス──スロボダン・ミロシェヴィッチに対する裁判のための回り道の証人の報告』(2006)にまとめている。これはミロシェヴィッチを擁護するために書いたというより、N‌A‌T‌Oと西欧諸国のユーゴスラヴィア問題への関与についての問いかけであり、またセルビアで見た名もなき人たちの現実を想起することで、異なる人々(民族)が共存していた場所が失われてしまったことへの喪失感を文学的に表現しようとした作品である。さらには、歴史的現実に対して終始模索してきた文学的自律が果たして本当に可能なのかどうかを、図らずも現実の政治に巻き込まれてしまったハントケが自らに問い直した作品であるとも言える。

 2006年以降さまざまな非難や攻撃をあびながらも、ハントケは今日に至るまで精力的に作品を発表し続けている。ハントケの著作は厖大であり、ここにその全貌を紹介する余裕はない。そうした厖大な創作を自ら総括するかのように、ハントケはノーベル文学賞受賞後に『別の国のわたしの日──悪霊たちの物語』(2021)という、これもきわめて難解かつ抽象的な小さな書を刊行する。ハントケはこの小品において、自らの文学の表現形式の変遷について、またその一方では自らが目指してきた文学世界の不変性について叙述している。つまり『別の国のわたしの日』は、創作に関する文学的自伝の書と解釈できるのである。

 すでに述べたとおり、ハントケ文学の全貌を簡潔に紹介するのは実にむずかしいが、ノーベル文学賞受賞講演はハントケの創作の真髄を理解する助けになると思われる。講演の中でハントケは、自らの創作の原点には母親から聞いた断片的な話があり、そこには彼女の家族を含む、歴史には決して残らない無名の人々の物語が存在することを明かしている。さらに、ハントケは自らの劇詩『村々を通って』(1981)のノヴァの言葉を長く引用している。ノヴァは互いに戦いを宣告する妹と弟らに向かって、「永遠の平和は可能です」(本書310頁)と言い切るのである。

 受賞講演のこうした言葉から読み取れるのは、一つには異なる民族の狭間に生まれたハントケが、つねに周縁に生きる人たちに眼差しを向けてきたことであり、さらにはナチス・ドイツへの批判的視座を原点として、いまだに民族間の対立がやまない現実世界に対して平和を求める文学世界を対峙させてきたということである。その意味で、ハントケが拘った旧ユーゴスラヴィアはあくまでも文学的メタファーであり、異なる人々(民族)が共存する文学的理想を表象していると理解できる。それは、ナチ的な「単一性」と「同質性」の正反対に位置するものであるとも言える(今日の世界が平和を達成しておらず、「ナチ的なもの」が跋扈していることは、ロシアのウクライナ侵攻のみならず、たとえばパレスチナやクルドなどの人々の被抑圧的な現実を見れば明らかである)。

 ハントケが頻繁に旅に出かけ、しばしば居住地を変えてきたことは、「そこには属していな【3】」という意識を持ち続けることで「単一性」と「同質性」に抵抗してきたことと無縁ではないだろう。現在も生まれ故郷のオーストリアに帰らず、異境の町に住み続けていることも、どこへでも行くことができながら、同時にどこにも属さない自由で開かれた創作者の意識の表れであると解釈したとしたら、穿ちすぎであろうか。

 最後に蛇足ながら、いわゆる「セルビア問題」の渦中にいたハントケの孤立が如何許りであったかを想像するために、2001年にミュンヘン滞在中の訳者にハントケから届いた短い手紙を紹介する。それは、その前年に訳者が一読者として送った個人的な手紙への返信である。

あなたの美しく、意味深く、精確な手紙に短く感謝します。あなたの手紙はわたしの心に残り、輝きを残しました。わたしはこの手紙を保管することにします。そして、あなたがこれからも偏見のない開かれた読者であり続けることを望みます。

 見ず知らずの読者である訳者に返信してきたこともさることながら、「genau〔精確な〕」と「Offenheit〔偏見なく開かれていること〕」という言葉には、当時のハントケの孤独な内面が滲み出ているように思える。「開かれた創作」を模索する作家の真意は作品の言葉にこそあり、それを読者が開かれた眼差しによって精確に読んでこそ、作品は価値を得る。しかるに当時、多くの人々は作品の言葉をろくに読むこともせず、偏見によってハントケを否定したのである。

 その意味でも、『長い別れのための短い手紙』の拙訳が、作品の言葉に込められたハントケの真意を読者に伝える一助となれば、望外の喜びである。

『長い別れのための短い手紙』

 1972年に発表された本作は、ハントケが最初期の言語批判的で実験的な創作を離れ、新たな文学表現を模索し始めた時期の作品であると言える。妻との別れに向かって主人公がアメリカ横断の旅に赴き、その過程で過去を想起し、さまざまな事象を経験する物語は、その筋書きの強度がきわめてゆるやかであるにしても、作者が「教養小説」を意識して書いたとも考えられる。それは作中にゴットフリート・ケラーの『緑のハインリッヒ』がしばしば引用されることに暗示されているし、妻ユーディット(この名前はホロフェルネスの首を落とした旧約聖書外典のユーディットと重なる)が旅のあいだじゅう主人公である「わたし」の生命を脅かすという、一見サスペンス仕立ての一貫した筋書きにも表れている。さらには、ハントケ自身が主人公について次のように語っていることからも、独自の「教養小説」を書こうとしていたことが窺われる。

この本の中でわたしは、ある希望を描写しようとしました。つまり、人があんなふうに次第次第に発展できるかもしれないという希望で【4】

 しかし、物語はその終盤でユーディットが「わたし」に銃口を向ける以外には劇的な展開を見せることはなく、ほぼ語り手である「わたし」の知覚と意識の描写に終始する。つまり、意識の変遷の果てに新たな自己と生き方の可能性を見出すという意味できわめて内省的な物語なのだが、そもそも教養小説が体験を通じて主人公が内面的に成長する物語であることを考えれば、作者自身が示唆しているように本作も立派な「教養小説」なのかもしれない。

 では、名前のない主人公であり語り手である「わたし」は、どのように成長したのか、あるいは成長しようとしたのだろうか。「わたし」は妻ユーディットの「わたしはニューヨークにいます。どうか捜さないで。わたしを見つけだしてもいいことはありません」(7頁)という短く不可解な手紙を受け取って、東部のプロヴィデンスからアメリカ横断の旅に出発する。旅は「わたし」がユーディットを追いかけるというより、むしろその逆であるが、彼女は物語の終盤で実際に姿を現すまでは、まるで影のように「わたし」につきまとうだけである。彼女の影は「わたし」の記憶を呼び覚ますきっかけにすぎず、物語は旅の途中で見る人々や町並みを知覚する「わたし」の意識のうつろいに終始する。再び作者の言葉を借りれば、一見リアルなアメリカの現実は「フィクティブな現実」であり、またそこで「わたし」に脅威を与えるユーディットはあくまでも「外的世界を可能な限りフィクティブに描く」ことで「人間および彼らの意識や状態についての真実に可能な限り近づ【5】」ための装置の一つでしかないと言える。たとえば、ユーディットの短い手紙にしても、手紙が暗示する脅しそのものに意味があるというよりは、「昔のことを思い出せるかぎり思い出してみると、わたしは生まれつき怖がりで驚きやすかった」(7頁)というように、むしろそれを読んだ「わたし」が自らの過去を想起し、心に眠っていた意識をよみがえらせる機能に重点が置かれているのである。

 これと同様に、ニューヨークの町並みやクレア、あるいは彼女の子供や友人カップルなどの、「わたし」がフィクティブなアメリカで見聞したり体験したりする事象や人間たちは、例外なく過去の自己意識を記憶から呼び覚まし、それをよりポジティブなものへと発展させるためのきっかけを与えるだけの存在である。「今アメリカで自分の子供の頃の体験が繰り返されているのに気づいた。〔中略〕もうずっと前に終わったと思っていた恐怖と憧憬のすべてがまた現れたんだ」(98頁)とクレアに言う「わたし」は、たとえば自己意識を持たないクレアの子供の目を通して、個の「恐ろしいくらいの退屈さ」や「惨めな孤独」(106頁)を追体験する。あるいは、「わたし」はアメリカでの取るに足りない体験を通して、次のような根本的な自己認識に至るのである。

ここではエスカレーターに乗っただけで、初めてエスカレーターに乗ったときの不安感を思い出すし、どこかの路地に入れば、これまで忘れていたのに、これまでの人生で自分が迷い込んでしまった路地のすべてがすぐによみがえるよ。特にここでははっきりとわかるんだ、なぜぼくには、不安な状態以外のことを記憶する能力が育たなかったのかがね。(75頁)

 このようによみがえるネガティブな記憶には、その一方で「別の時」と「今の場所とは別の場所」、そして「今のわたしの意識の中とは別の意味」(23頁)が存在するという予感が伴っている。「これまでの人生、それはまだすべてであるはずがなかった!」(24頁)という希望をもって、「わたし」は新しいポジティブな自己を求めてアメリカ横断旅行を続けるのである。

 そしてついに、「自分自身のことを話すとき、ぼくはいつもそれが時期尚早であるように思えてならない」(195頁)と言うジョン・フォードのもとで、「わたし」はそれまでの自我だけに執着した自己を克服し、他者との新たな関係を築く可能性を発見する。それは若き日のリンカーンを演じるヘンリー・フォンダが見せる「心がこもった微笑み、決して自分自身のためでなく、つねに無私に他者に向けられた微笑み」(138頁)が象徴するポジティブな自己である(「無私」とはもちろん、自己そのものを捨てることを意味してはいない)。

 しかし、アメリカの人々が示す自己の別のあり方を模倣することが、「旧世界」からやってきた「わたし」の旅の結論ではない。「彼らのようになりたいということではなく、自分にとって可能なものでありたい」(138頁)という希望を見出したことこそが、「わたし」が再生する可能性を示しており、ネガティブな自己に囚われた長い旅を終わらせてくれるのである。この可能性を確信した「わたし」は、古い自己と決別するかのように、ユーディットとの「長い別れ」にようやく静かな終止符を打つことができる。そして作者ハントケも、ネガティブな文学表現から可能な限りポジティブなそれへと、新たな創作の一歩を踏み出したのである。〔後略〕

 2023年8月 相模原にて

【1】本戯曲は四人の話者がひたすら観客に言葉を投げかける作品であるが、実際に観客を罵倒するのはその最後の数頁だけである。観客は舞台(=世界)の傍観者ではなく当事者であることを示すのが本作のテーマであり、投げかけられる言葉には、「おまえら、戦争加担者」などというナチの歴史を想起させるものもある。
【2】ハントケはトーマス・ダイヒマンとの対談の中で次のように述べている。「〔『ゆるやかな帰郷』の〕主人公は地質学者で、彼は今世紀の夜、つまりナチ的なもの〔Nazitum〕から脱却して、新たな歴史へ旅立つことを願っています」(“Peter Handke im Gespräch mit Thomas Deichmann”. In: Nocheinmal für Jugoslawien: Peter Handke. Herausgegeben von Thomas Deichmann, suhrkamp taschenbuch, 1999, S. 189)。
【3】この表現は具体的には『真の感覚の時間』などの作品に出てくる表現であるが、その他の作品も含めハントケの主人公に共通する意識と理解できる。
【4】Hellmuth Karasek: Ohne zu verallgemeinern. In: Über Peter Handke. Herausgegeben von Michael Scharang, edition Suhrkamp, 1979, S. 88. 傍点は引用者に拠る。
【5】Ibid., S. 86.

ペーター・ハントケ
© Wild Team-Agentur-UNI Salzburg


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訳者プロフィール

服部 裕(はっとり・ひろし)1981年ドイツ連邦共和国フライブルク大学修士課程修了。明星大学名誉教授。学術論文に「ペーター・ハントケの『長い別れへの短い手紙』──新しい主体を求めて」(オーストリア文学研究会)、「創作の軌跡を跡づける文学的自伝の物語──ペーター・ハントケの『別の国のわたしの日』についての一解釈の可能性」(明星大学研究紀要)ほか。

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