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消化できない少女

 先日、僕は祖母の家へ電車で帰省していた。まるでヒロインの一人や二人、平気で現れそうな春日和だったが、そこには深いノスタルジーや不思議な出来事などは無く、一泊二日の帰省は何事も無く終わった。

 本題は自宅へ帰る中途で出会った女性の話だ。拙い文章で申し訳ないが、彼女の存在は何かしらの媒体に変えたうえで消化しておかねばならない気がして仕方がないので、先日の出来事を文章として残すことを許してほしい。

 帰路で乗った列車はそれなりに名の通ったもので、少々人が多めに入っても大丈夫なように座席の背もたれの裏側に折りたたみ式のシートがついていた。そして、わざわざそれを説明したのは、僕が座ったシートがそれだったからだ。他に理由は無い。

 発車してから数分間、僕は文庫本に目を走らせていた。その時読んでいたとある短編集は終盤に差し掛かっており、読み切ってしまいたかったのだ。
 そんな感じで首を曲げて猫背になり、悪い姿勢で本を読み進めていると、ふと、僕の向かい側に一人の女性が座っていることに気づいた。いや、別に、向かい側に人が座っているのは公共交通機関ではよくあること、むしろ混み合う時間帯(僕が乗ったのは二十時の列車だ)では当然とも言えるが、別にそういう話をしたいわけではない。僕が話したいのは、その女性についてだ。

 彼女をジロジロ見ても不審がられるだろうし、僕は文庫本を読みつつ、時折彼女のほうに視線を送っていた。彼女の服装は白いワンピースと丈の短い羽織物、そして麦わら帽子だったから、ずっと目を離し続けるわけにはいかなかったのだ。もっと見たかったのだ。感傷マゾを患っている人間なら深く共感してくれるだろう。列車という、あまりにも物語じみた場所で物語じみた少女(僕が出会ったのはおよそ少女とは思えない、二十五歳前後の成人女性だったが)に出会う経験など、人生に一度あるか無いかの二通りしかないのだから、『あるほう』の人生を歩めたならそれを堪能したい。

 僕はその、あまりにも運命的な出会い、いや、別に彼女とは出会ってはいないのかもしれない——出会いとはきっと、お互いが目を合わせた瞬間から始まるものだから、そういう意味では僕と彼女は初めから出会ってなどいなかった。あの時、僕は彼女を『見ただけ』なのだ。

 僕は危うく彼女に声をかけるところだったが、さすがにその後の展開に物語補正がかかっているとも思えなかったので、自重した。文庫本を読み終わった僕は、本当に見たかった存在は見ずにスマホを眺めた。僕はあったかもしれない出会いに妥協したのだ。もしも彼女を見ていれば、彼女に話しかけていれば、何かが変わったかもしれない。あるいは何も変わらなかったかもしれない。あるいは悪い方向に人生が傾いたかもしれない。だが、僕は何もしなかった。

 これは僕の持論だが、現実はどこまでも現実で、一瞬フィクションが混ざったところで、それからずっとフィクションである保証はどこにもないのだ。

 僕も彼女も終点で列車を降りた。雑踏の中で僕は彼女を一瞬見失ったが、すぐにエスカレーターにその姿を確認した。僕はエスカレーター横の階段を上っており、時折視線を彼女に送ったが、彼女が気づくわけもなく、階段を上りきった後、駅舎で僕らは離れ離れになった。

 そして、二度と会うことはないだろうと思いながら、僕は列車を乗り換えた。

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