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【LA備忘録】リトル・トーキョー

リトル・トーキョーの発端

チャイナタウンの南西に広がる一帯はリトル・トーキョーと呼ばれている。もともとはドイツ系ユダヤ系が多く住む地域で、リトル・ベルリンと呼ばれていたという。そこに1884年、チャールズ・カメと名乗った重田浜之助が「かめレストラン」を開店し、日系人が集うようになったとの説が有力だという。それはいまのBunkadoがある場所であるとのこと。

Bunkado

日系移民の多くは農園に従事することが多く、20世紀初頭に郊外で作った野菜をこの辺りの野菜市場で販売したこともリトル・トーキョーの形成に寄与した。そして、1906年のサンフランシスコ地震の影響で、サンフランシスコの日本人街は壊滅し、LAに移ったことでLAの日本人人口は増えたという。

リトル・トーキョーの向かい風

日系移民に対する排斥法は、中国系への排斥法(1882年)に遅れ、1924年に制定される。これにより、日系の移民が完全に禁止された。そうした向かい風が吹く中、日米開戦となる。開戦とともに、日系人は強制収容を強いられ、リトル・トーキョーは空き家となり、黒人とインディアンが住み着いたという。戦後空き家に住み着いた者たちは出て行って、日系人の一部は戻ってくるが、土地の所有権を認められていなかったため、一部は他地域に住み替えることとなった(越智道雄『カリフォルニアからアメリカを知るための54章』136頁)。たとえば、リトル・トーキョーの東にあるロサンゼルス川の東に広がるBoyle Heightsはその移住地のひとつである。(この地域には、サクラ・ガーデンズ(旧「敬老引退者ホーム」)という日本語でケアを受けられる老人ホームが有名である。)

リトル・トーキョーの再開発

Bunkadoからほど近くにDoubleTree by Hiltonというまずまず立派なホテルがある。これはもともと1977年9月にオープンした「ザ・ニューオータニ・ホテル・アンド・ザ・ガーデン」であった。これらの一角は、戦後ますますスラム化しつつあったリトル・トーキョーを一新すべく再開発で建てられたものだった。

この再開発を推進したのが、鹿島建設であった。
鹿島のHPによると、1961年に鹿島建設会長の鹿島守之助と社長の卯女夫妻がリトル・トーキョーを訪れた際、卯女は「当時、リトルトーキョーに隣接する都ホテルという煉瓦造の古いホテルがあった。住友銀行の支店はそこに入っていて、銀行の支店長の案内でそのホテルの屋上からリトルトーキョーを眺めた。ホテルは、住友銀行がよくこんな汚い所にいられると思うほどの古い汚いビルで、そこから眺めた日本人街は決して美しいとはいえない古い汚いさびれた町だった。」と述べたという。
帰国後、鹿島守之助は、「リトルトーキョーの近代化なくしては、日米対等は考慮できない。」と考え、住友銀行頭取の堀田庄三とともに、再開発のために立ち上がった。これに多くの日系企業が海外展開を目論見つつ出資した。1967年にカジマビルが竣工し、その後、ニューオータニに隣接するショッピングセンターのウェラーコートもできた。商店街(Japanese Village Plaza)や日米文化会館等もでき、一帯の再開発が完了した。

DoubleTree by Hilton(旧ニューオータニ)

いまや、ホテルは日系資本から手を離れ、Hiltonの手中にある。商店街には人も多いが、「福」と「祭」と書かれた提灯が吊るされたその風景は、偽物の巨大ショーケースを歩かされているようで、いささか居心地が悪い。ウェラーコートには、紀伊国屋書店をはじめ、日系のお店が多く残るが、K-Popのお店や韓国料理店、中華料理店も入っており、当時の勢いはそがれているようにも感じる。

なお、このLAのニューオータニは三浦和義のロス疑惑に関連している。三浦の妻がこのホテル滞在時に鈍器で殴打された事件があり、3か月後の妻の銃撃に先行していた。

リトル・トーキョーの生んだ文化

リトル・トーキョーにあった「東京會舘」というレストランの寿司職人がアメリカ人向けにと開発したのがカリフォルニア・ロールである。LAには本当に死ぬほどカリフォルニア・ロールを出す寿司レストランがあるが、発端はリトル・トーキョーであった。

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