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青の世界へ

 バシャッという音と共に光景は青に包まれた。
完全な青というよりは、色褪せた白黒写真が映す藍色に近い。事実、それは十年も昔の記憶であって、写真の中に入り込んだように世界は静止し続けている。

幼い頃の僕は、コンサートホールの舞台に立っている。向かい合う観客達は皆、真っ青な顔をしている。目の前に仁王立ちしている男のジャンパーも陰に覆われた顔も青い。足元に横たわっている父の姿も青い。父の腹部から流れ出す血も青かった。飛び散ったそれも生温かいはずなのに、身体の芯から冷たく感じた。インクのように皮膚に染み込んでいき、体を侵食していく。恐怖で身動きが取れず、鼓動が高まっていくのがわかった。思いとは反対に、目の前は青に押し寄せられた。意識は深く青に飲み込まれた。


 目が覚めると、真っ白なはずの天井が水色がかって見えた。認識した途端、だるさを感じる。またやってしまったか。自室のベッドに横たわりながら心の中で呟いた。すると、視界の端から母が現れた。

「大丈夫?」

母は心配そうに尋ねた。大丈夫だよと言って、母を安心させるために起き上がった。冷え切った指先は青白く、感覚が麻痺していた。ぎこちなくならないよう笑顔を作る。だが、母は困り顔のままだった。

「ごめんね。私が急に入って来てしまったから」

「僕が不用意に歌ってたからいけないんだ。母さんのせいじゃないよ」

母の言葉を遮って言った。途端、母は顔を覆って泣き始めた。

「貴方までいなくなったら私、どうしたらいいの」

嗚咽を漏らして泣く母を優しく抱きしめる。まだ白い壁が水色がかって見える。

「大丈夫。いなくならないから。一人にしないから」

母の背中を擦り続けた。壁にある赤黒いシミを見つめながら。

 父は歌手、母は作曲家という音楽一家に僕は生まれた。昔から音楽に囲まれて育ち、歌うことは一番好きだった。よく褒められ、何よりそれを聴いて両親が喜んでいることが嬉しかった。時々父のコンサートで歌うこともあり、沢山の人から拍手をもらうと気持ちが高揚した。回を重ねていく内に気持ちは膨らみ、将来は歌手になりたいと思うようになった。

だが、夢は突然絶たれた。

十年前、父のコンサートに出演した時のことだった。父のピアノを伴奏に歌い出そうとした時、青いジャンパーの男が舞台上に現れた。ナイフを取り出し、襲いかかる。その瞬間、目の前に父の背中が立ちはだかり、不気味な音が舞台に響いた。淡い青色のジャケットからナイフの先が飛び出していた。それが引っ込んだ瞬間、穴から血が噴き出した。父は足もとに倒れ、床に広がっていく血。記憶はそこで途切れている。気が付くと、父は帰らぬ人となっていた。母は遺体の傍で泣き崩れていた。その姿を見て、ふと思った。僕のせいで父は死んだと。

その日を境に、僕は人前で歌えなくなった。歌おうとすれば、青の世界に誘われ、あの日の記憶を鮮明に見せつけられる。一度そこに引き込まれると抜け出すことはできず、青に意識を飲み込まれるまで悪夢は終わらない。僕の場合、それがフラッシュバックらしく、その状態の時、呼吸困難と動悸の症状が起こる。症状としてはたいしたことないのだが、強いショックや症状が長引くと命に関わると医師に苦言を呈された。事実、一度だけ心臓発作を起こして死にかけたことがある。母はその時、父が死んだ日のように泣いていた。私を一人にしないで、と。

そこから僕の人生には二つの選択肢が存在している。

寿命を縮めてでも音楽に情熱を捧げるか
音楽を諦めて生き長らえるか

後者を選ぶのが当然だろう。だけど、僕は未だに音楽と命の狭間で宙ぶらりんの状態を続けている。だって、音楽を失ったら生きていけない。


 心の中で鼻歌を歌いながら楽譜に音を書き付けていく。現在、僕は友人のバンドの作曲をしていた。音楽と繋がる方法はいくらでもある。だが、友人達の歌う姿を見て空しくなるほどまだ歌手に未練があるのも事実だった。暗い気持ちを振り払い、再び作業に戻ろうとすると電話が鳴る。電話の相手は友人の落合だった。

「今から出られるか?」

落合に呼び出された場所は芸能事務所だった。事情を聞くと、デモ音源と間違えて僕が歌うサンプルCDを送ってしまったらしい。そして、僕に連絡してほしいと頼まれたそうだ。

「歌手デビューしないか?」

目の前に座っている男性の言葉に驚きが先立って、やがて喜びの感情が沸き上がった。だが刹那、母の泣き顔が脳裏に過ぎる。

「お断りします。僕は、人前で歌えないんです」

そう言って席を立った時、呼び止めるように男性は言った。

「なら、君が歌える方法を考えよう。私は君を諦めたくない」

その言葉は希望のように思えてならなかった。

誰もいない部屋で僕はカメラの前に立っていた。レンズの奥で青い光が静かにこちらを見ている。けれど、自然と嫌ではなかった。いいことばかりじゃない。だから向き合っていかなければ。青の世界へ。

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