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協働する世界へ


 ――世界より広い庭で遊んで過ごした


 次作の出版物の構想を練りながら、短編中編を書いています。

 まだまだ未熟なので、どんどん練磨しなければいけない。小説にはいろんなスタイルがあって、なるべく多くの、そして深いスキルを身に着けたいのである。

 以前、20代で一度商業デビューした時には、ある意味地力が伴っていなかったと思う。求められているものと自分の力量がマッチしていなかった。なにより致命的だったのは、そのことを自覚できなかったのだ。

 いまなら、大丈夫、ということでもないが、若き日のしくじりを繰り返さないために油断なく技術を向上させていかなければどうしようもない。なにしろプロの作家というのは、当然ことながら、文章と小説の鬼で、セールスと自己表現の隘路をくぐり抜けてきた猛者たちばかり。生半可なことでは拮抗できない。

 と、同時にアマチュアリズムというものにも魅かれており、web小説や同人誌などにも興味がある。小説には資格などなく、誰がどのように書いてもいいし、誰がどのように読んでもいいはずだ。

『ヴィンダウス・エンジン』は出版されてネット上からは消えてしまったわけだが、うれしいのと同時に一抹の寂しさもある。フリーで誰にでも読める場所に置いておける小説というのもあってもいい。

 カクヨムに書いた『疾走する玉座』もどこかのタイミングで本にしたいという希望がありつつ、ネット上に残り続けても欲しい気もする。

 そんな、さまざまな境界線上で揺れているわたしだが、近頃とみに感じるのは、制作のプロセスも見せていきたいということだ。編集者との話し合いや資料収集、取材、校正、推敲までオープンな場所に晒してしまいたいという欲望がある。

 これにはいろいろなきっかけがある。キングコングの西野さんは、作品のプロセスごと開示することで応援してくれる人を増やすという戦略をよく口にしている。もちろんネタバレの味気なさは大きなデメリットだろうが、執筆という孤独な作業においては、ひとつひとつ反応を受け取った方が燃えるという人もいるだろう。

 また、ハヤカワSFコンテストを同時受賞した竹田人造さんの改題騒動にも少し考えさせられた。あれを編集者の専横と取る者も多かったが、商業小説の協働過程の開示だと解釈するなら別の価値が生まれる。

 小説が作家自身のもの(だけ)ではなく、もっと大きな仕組みの中にあるのだとちょっとばかり刺激的な形で見せてくれたのである。わたしも幾分かはそうして協働の在り方を明らかにしていけたらなと思う。

 話が戻るが、これは商業出版だけでのことではない。web小説であってもレビューやコメントのやり取りはある意味協働のカタチではないか。完結前の小説に寄せられたコメントやレビューによって展開が変わることなどザラにあるだろう。

『ヴィンダウス・エンジン』にもそうした契機は無数にあった。というよりも読者の励ましやアドバイスがなければ、あの形になっていなかったし、コンテストに出すこともなかった。出版後のレビューや書評には、作品を変える力はないが、制作中に寄せられる声には、それがあるのだ。

 協働とプロセスの開示。これが、この先のわたしのスタイルになるかと思う。惨めな失敗と挫折の記録になってしまうかもしれないが、それもまたひとつの価値である。そこから開ける新たな世界もあろう。

 まもなく2020年という世界的大過の年も終わる。

 分離と争闘が目立つ一年だったが、ぬくぬくと絶望していられるほど我々には余裕もなければ、猶予もない。もっともっと創造を分かち合っていきたい。


リロード下さった弾丸は明日へ向かって撃ちます。ぱすぱすっ