見出し画像

DAY25.  シラサギの舞う日に


 つい、出来心だった。最後になるかも知れない移植前に、できるだけストレスを減らしておきたかったのだ。

「なんか、思ってたよりも……。そうか、こういう感じになるんですね……」

 これまでにない手触りのする髪を弄びながら、目の前の大きな鏡をまじまじと眺めた。

「もう少し、サラッとした感じになるのかと思ってたな。ブローいらず、みたいな……」

 そこに映るのは、ひとり自分の顔を見て苦笑している私と、隣のチェアで何やら憤慨しながら仕事のLINEをやりとりしている夫の姿。その膝ですやすや眠る店の看板猫。

 そして私の傍らで、ドライヤーを手にしたこの店の主が立ちすくんでいた。もう10年ほど世話になっている彼だが、今日はいつもの人の好い笑みが消えて、生来の色白が輪をかけて青みがかっている。

「そうですよね……。も、もぉしわけございません……!」

 と、そこからひたすら謝り倒されることになった。青白い顔で永遠にブローをしていたけれど、最終的にどうにも収まりのつかないチリついたおかっぱ頭が出来上がる。

「毛先にヘアアイロンをかけていただければ、少し馴染むと思いますので……」

「なるほど……」

 毎日ブローをするのが面倒でかけたストレートパーマだったが、ブローどころかヘアアイロンまで必須な髪へと変貌を遂げたらしい。このあいだ全面ブリーチをしてカラーリングしたアラフォーの脆弱な髪に、どうやらとどめを刺してしまったようだ。

「あの、今日はもちろんなんですが、もうこれは修正できないので髪を切っていくしかなく……。そのあいだ、1年くらいは無料でやらせていただきますので、どうか……」

「え、いやいやいや。私が無理にお願いしたんですから、大丈夫ですよ。これはこれで楽しむので。うん」

「いえ、これは完全に僕が美容師として、ちゃんと予測しておかなければならなかったことなので……。本当に、もうしわけないです……」

「いやいや」

 彼のあまりの憔悴っぷりに、「僕もいますよ?!」と、自分のスタイリングをおざなりにしないでくれと笑っていた夫が割って入る。

「わかりました、わかりました。とりあえず、僕は別個人なので。じゃあ今日は、僕の分だけはお支払いしますね!」

「いえ、そういうわけには……!」

「お金いらないなんて言われたら、もう来れなくなっちゃうから、ね。今日はこれで。あとは次回、また来た時に話すことにしましょう!」

 最後は夫が有無を言わさずまとめる形となった。実際、夫と私には、そんなことよりも気になっていることがあったのだ。

 いつもは3時間ほどのところ、夫のスタイリングを終える頃にはもう5時間が過ぎていた。密かに美容院のあと行こうとしていた絶品雲丹パスタがあるピッツェリアが、ちょうど閉店時間を迎えようとしている。

 チリチリ頭を悲しむより、食べ損ねた雲丹パスタを惜しむ気持ちのほうが上回っていた。久しぶりの外食だったのに。コロナの流行が始まってから、すっかり外食の数が減ってしまっている。こうして何かのついででもないと、ふたりで食べに行くきっかけを失ってしまう。

「はぁあ。今日は、お疲れー!」

「かんぱーーい!」

 美容院のあと、結局私たちは家の近くのめちゃくちゃ旨いたこ焼き屋でお気に入りの塩マヨたこ焼きを手に入れて、コンビニでビールを買い込んで帰ったのだった。

「くぅ。やっぱり、うまーい!」

 最近夫が気に入っている、缶を開けると泡が出るタイプのスーパードライ。「普通のスーパードライはキレしかなくて味わいがないよね」とかなんとか、昔はよく言っていたはずだが。グラスに注いだ時に出るのとはまた違う、このふわもこな泡があるだけで、まったく風味も違うように感じられるから不思議だ。

「しかし、ストレートパーマに夢見すぎたよ」

「自分で言い出したんだからね。仕方がないよ……チリ子ちゃん?」

「む、むぅー!!」

「ぷぷ。まあ、まあ。クリスマスもどうしようか。今年はどこか店で食べるって言ってたよね?」

「そうだねぇ……」

 まだ中が熱々とろとろのたこ焼きを慎重に口へ運びながら、「でも、その頃にはどういう状態になっているかわからないからね」と返す。もう何度目かのやり取り。「今年の冬はスノボにでも行くか!」「来年はいよいよ海外旅行でもいくか!」と夫が景気のいいことを言い出すたびに、同じ返事をして出鼻を挫いている。

 今日は12月最初の土曜日で、確かにもうそんな時期にさしかかっていた。毎週宅配してもらっている生協パルシステムでも、クリスマス早割セールだ何だと注文を迫られている。

 しかし、相変わらず私は何を決めるのにも不妊治療に思いを巡らせてしまっていた。クリスマスの頃には、もしかしたら生物もアルコールも口にできなくなっているかも知れない。粛々と治療の終わりに向かっているようで、今回の移植が成功した場合についても、いまだ性懲りもなく皮算用している。

 今日は今日で、朝からクリニックで採卵手術をしてきたのだ。

 泣きの一回だった。前の周期、排卵誘発剤のクロミッドを10日間飲んでの採卵が最後になるはずだったのだけれど。結果は、これまでで一番多い4つが採れたにも関わらず、移植できる胚盤胞まで育った卵はゼロ。天国から地獄へ突き落とされた。

 もうこれで、本当に終わりなのかも。その予感に、夫が言葉少なに落ち込んでいるのを肌で感じていた。治療に関係することも、将来の子どもについての話題も、だんだん日々の会話には出なくなってきている。

 移植をするとしたら、クリニックの方針で私は完全自然周期を提案されていた。薬でホルモンを補充しない完全自然周期での移植の場合、スケジュールは自由にならず、体の状態に左右されながら移植日が決まることになる。

 ただ、クロミッドも飲めず、何の刺激もできないけれど、もしもそこで卵が育てば。先にそれを採卵してから、その5日後に予定していた胚盤胞を移植することが可能なのだ。12月に育った卵と7月に育った卵を、そっと差し替える。考えてみると、少し奇怪な感じもするけれど。

 刺激をすることができないから、育つのは自然の状態と同じ1つくらい。一度に何個も採卵できるようなら、とても効率が悪い方法だった。金ばかりがかかる。でも、刺激をしてもだいたい1つ2つくらいしか育たない私からすると、この1つはとても貴重で、しかも今回が正真正銘、最後のチャンスだった。

 夫をがっかりさせたくなくて、最初はその可能性を言い出せずにいた。でも、移植の準備を進める中で採卵もできそうだとなって、はじめて相談をする。すぐに、「できるならしようよ」と返ってきた。当然の顔をして。夫もやはり、最後の最後まであきらめてはいない。

   *

 最後になる覚悟で臨んだ7回目の移植手術は、卵胞の成長が遅く、生理後20日目での採卵となった。採卵は19回目だ。こうなると、切りよく20回までやるべきかとも思えてくる。やろうと思えばいくらでも回数を重ねられるのが、もはや魔境だ。保険適用もなく、すべて持ち出しになることに腹をくくった不妊治療に限っては。

 いつもよりだいぶ日数がかかったのは気がかりだったが、採れた卵はまさかの2つ。ともに成熟卵だった。「これ、自然妊娠したら双子ってことですか?」と間抜けな質問を医師にぶつけ、「まあ、そうですね。確率は少ないですけれど」と苦笑いを引き出すことに成功する。

 そしてようやく迎えた移植当日。5日前に採卵した卵の成長が遅く、育ってはいるもののまだ凍結できていないという話を聞いて、一気に意気消沈する。そんな周期で本当に移植ができるのかどうか、血液検査結果を待つまでヤキモキさせられた。もしかしたら、そこが緊張のピークだったろうか。

 いざ移植できるとなったら、自分でも笑ってしまうほど気負いがなかった。少し寝不足だったこともあって、手術を待つほんの数分にベッドで夢を見たほどだ。名前を呼ばれて起き上がり、よし、いっちょ行ってくるかくらいの気軽さで手術室へと歩いていく。

 手術台に横たわり、おもむろに膣を消毒され、無麻酔のまま子宮口から器具を入れられて。下腹部に嫌な圧迫を感じながら、とにかく息を吐いて力を抜くことに全神経を集中させた。とてもリラックスできる状況じゃないが、無理やりにでもリラックスを演じてみせる。これから卵を迎える子宮に、できるだけストレスをかけないように。その一心で。

 看護師に促されて、薄暗い手術室のなか緑がかった光を放つモニターを見上げた。部屋の上部に掲げられた大きな画面には、これから移植をする卵が静かに映し出されている。

 本当に、綺麗な子だった。これもまた親バカだろうか。

 リアルタイムの映像は、写真で見るよりもはるかに生き生きとしていて。それが一つひとつの細胞なのだろうか、卵の中にぷくぷくと丸い凹凸の陰影が浮かび上がってきらめき、まるで月のクレーターのような神秘性を湛えている。

 思わず見入ると、そこへ左のほうからスススッと管が近づいた。卵は愛らしくその中へと吸い込まれていき、「今から移植していきますね」と傍らの看護師に告げられる。

 その卵の姿があまりに鮮明で、美しくて。頭に焼きついてしまって忘れられそうにない。いざ手元の小さなモニターで見るよう言われた子宮内への移植の瞬間は、少し画面がぼんやりとしていて、今回はよくわからなかった。

 本当に、あの綺麗な子を、ちゃんと私のお腹に戻してくれたのだろうか――。

 今度こそ、生まれてきてくれたなら。きっとこの日のことを話そうと思う。移植した後、車で迎えに来てくれた夫と、熱々のマックフライポテトをほくほく食べながら帰ったことも。

 移植がうまくいくというジンクス。あなたがお腹の中で一番初めに感じたはずの私の「旨い!」は、いつかあなたの好物のひとつになっているかしら。

   *

「ちょっと散歩してくるねー」

「ああ、ごめん。大丈夫?」

「うん。この後ミーティングでしょ? 軽く行ってくるよ」

 夫はこのところますます忙しく、朝から夜までひっきりなしに相手を変えてオンラインでミーティングをしていた。そこへ、移植後だからと普段はしない洗濯や掃除にも精を出し、気を抜くと昼ご飯を食べ損なっている。

 対して私はかなりゆとりのあるスケジュールで仕事をしているから、移植後だからと一人のんびりしているのは忍びなかった。せめて、犬の散歩くらいは。

「そういえばさ。最近は散歩するときはあんまりマスクしてないんだけど」

 夫が言い、私も頷く。

「そうね。夜とかは特に話しかけられないし、私もそうしてる。屋外だしね」

 マスクをつける基準も、この2年でだいぶ変わってきた。昼間も感染対策というより、気分的にはすっぴん隠しと防寒でつけているようなものだ。

「でも、つけてる意味がわかったわ」

「ん?」

「この間から、あのポッドキャスト聞きながら散歩してるんだけどさ」

 長い事故渋滞に巻き込まれた日。私は運転席の夫に、ポッドキャスト「アンガールズのジャンピン」を聴かせたのだった。

 お笑い芸人の田中と山根、意外とふたりの声が心地好いポッドキャスト。ほどよく気が抜けていて、笑えて、最高にくだらない、わちゃわちゃしたやりとり。ときどき山根がぽつりと話す娘の話も、独身の田中ならではの返しも、なんだか好きだった。

 どうしようもなく落ちている日も、散歩しながら何も考えずに聴き始めると、いつしかその暗闇から抜け出せている。私のカンフル剤。と言ったら、大袈裟か。

 「えー、なんでアンガールズぅ?」とか言っていたし、あまり夫の好みじゃないかなと思っていたら。ちゃっかりリスナーになっていたらしい。

「マスクってさ、にやけ笑いを隠すためにあるんだな」

「あはは、わかる!」

 今日もそんなどうでもいい話を夫と笑い合いながら、一日が始まっていく。私がいつものように犬を呼ぶと、彼女はすぐに満面の笑顔で階段を駆け下りてきた。その姿を上から冷めた目で見やる猫にお留守番をお願いして、さっそく外へ出る。

 率先して足どり軽く前をいく彼女に連れられて、いつもの河川敷へと歩を進めた。彼女がいつも念入りにクンクンする角を曲がって、いつもの団地の脇を通り、ちょうど川の橋がかかっているあたりに出る。そこで、彼女がぴたりと止まった。

「わぁ」

 橋の上を、真っ白い大きな鳥が飛び越えていく。ふぁさ、ふぁさと振りかぶる羽根の躍動感に心奪われた。白鳥? いや、シロサギか。あんなに大きなのは久しぶりに見たな。そう思いながら川へ近づくと、先ほどよりも少し小さな白い鳥がその後を追うようにして飛んでいった。夫婦だろうか。

「え……」

 たどり着いた橋のたもと、その眼下には、一面に真っ白な鳥たちがひしめいていたのだった。それに吸い寄せられるようにして、河川敷に降り立つ。よく見ると大小さまざま、くちばしの色なども微妙に違うのだけれど、どれも真っ白な鳥たち。

「ふ」

 思わず笑ってしまう。なにこれ、なんだか縁起が良い。普段から、ちょっと親子らしき鴨らを見かけただけで「これは子宝の啓示!?」なんて思ったりしているのに。自然ってときどき、こうして実に思わせぶりなのだ。

 それにしたって初めて見る光景だった。信じたい気持ち。信じてしまって、突き落とされたときの絶望を、もう味わいたくない気持ち。まぜこぜ。でもいいじゃん? もう最後なんだし、のっかってみれば――。

 少し曇った冬空のもと、清らかな白色をまとった鳥たちをしばし眺めた。傍らの彼女も、何か物思いにふけった顔で立ち止まっている。

 結局のところ、およそ8年、不妊治療にまつわる悲しみを挙げればきりがないけれど。その端々で、私は夫と一緒に確かに触れてきたのだ。新しい命の片鱗に。

 つかめそうでつかみきれない夢は、どこか憧れに近いものがあって、いつまでも現実味が伴わない。これから本当に親になる覚悟があるのかと真正面から問われたら、正直、動揺もしてしまう。

 それでも、願わずにいられなかった。私たちのもとに来てくれる子を。それが叶いそうにないことを、人はいつ悟るべきなのだろうか。

 きっと、どこで終えても不完全燃焼になる気がする。結局、結果が伴わない挑戦というのは。

 でも、私は私だ。ほかの誰でもなく。私は私の大事なものを、これからも模索し続けるだろう。そして恐らく、あの夫とこれから生涯をともにするだろうことも、予感している。この8年の間に。

 判定日は、2日後だ。

この記事が参加している募集

熟成下書き

これからの家族のかたち

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?