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【修辞学】椅子は「レトリック」なのか、そうではないのか

「レトリック」って何ぞ…?

平沢スカラーにはベイツ大学で必ず履修しなければならないいくつかの授業があります。その授業の一つが「What's Rhetoric? (修辞学とは)」というもの。

授業のタイトルの通り、レトリックとは何かということを授業の主軸として1学期間勉強するのです。が、そもそもレトリックってなんだ?日本語にすると修辞学、馴染みがない…。結構な頻度でアメリカの友人たちにも「レトリックって何?」と聞かれます。

レトリックは、はるか昔古代ギリシアやローマの時代から、現代にいたるまで研究されている歴史のある学術分野なのです。中世ヨーロッパでは、大学の自由七科の一つとされていました。まさにこれがリベラルアーツ…!

授業では、ゴルギアスやイソクラテスに始まり、プラトン、アリストテレス、キケロなどの古典やフーコーやバークといった現代の思想家たち、そして非西欧圏のレトリックについての文献を読みました(しんどかった…)。

殴られたらまあまあ痛いレベルの重量感の教科書

とても大変だったレトリックの授業ですが、この1学期間を通して、私が学んだこと、考えたことを書き残しておこうと思います。

レトリックと椅子

一般的にレトリックは、人々を説得したり感動させたりする方法論のようなものだと捉えられていますが、勉強してみると、真理とは何か、善とは何か、人間の意志はどこにあるのかというとても哲学的で形而上的なことを探求する学問です。

それを考えると、レトリックによる説得は果たしてどこまでがレトリック自体による外的作用で、どこからが人間自身の意思による決断・決定なのだろうという疑問が出てきます。

実際に、この授業の中でずっと記憶に残っている議論があります。

椅子は「レトリック」なのか、そうではないのか

ある部屋にある椅子をイメージしてください。

その部屋に通されたあなたは、その椅子に座ろうとします。

その椅子はその存在によって、あなたがそこに座ろうとすることを促します。あなたはその椅子に座った時に、一息ついて、そしてその椅子の上で一番居心地が良い体勢になります。あなたは椅子に座ってぼーっとしていると、目の前にある絵が気になってきます。

椅子という存在、その形、部屋の中のどこに位置しているかというレイアウトによってさえ、あなたの行動が決まるのです。これって椅子による「説得」ではないでしょうか?

一方で、こんな場合も考えることができます。

椅子はあるけれど、座ることを選ばないあなた。普通に座るのではなく、横向きとか後ろ向きに座ってみようかなと思うあなた。窓際がいいかもな、なんて思って椅子を移動させるあなた。

あなたの意志と椅子の説得の境目はどこにあるのでしょうか?

この議論は、クラスの中でも意見が割れ、以降の授業の中でも度々登場するトピックになりました。

街の中のレトリック-排除アート‐

私がこの議論を通して、思い浮かべたのは「排除アート」と呼ばれる街の中のデザインです。

アメリカでも、日本でも、わざと人が長時間留まりにくいようなデザインのベンチが「街の中のアート」という面持ちで存在しているのです。

このような類のベンチは、デザインとしてある一定の人々を排除するのと同時に、彼らの存在を不可視化させる、それが前提の社会規範を作り出すという意味でレトリックです。

一方で、上記の記事のように問題提起がされるというのも、このベンチのもつ力とも言えます。

私たちの行動や思考は、このベンチという一つの存在に影響を受けます。

どこまでが椅子自体のレトリックの力で、どこからが私自身の意志なのか。そんなことを考えた「What's Rhetoric? 」の授業でした。

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留学生活の出来事や生活ではなくて、自分の思考をただ文章にした記事は今まであまりなかったけど、こうやって何を学んだのかということを残しておくことは、将来読み返した時に面白いだろうな。

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