苛立つサイモン・クリッチリーは、「口を閉じろ」と叫ぶ

ツイッターを眺めていると、サイモン・クリッチリーが書いた文章が流れてきました。

非常に適切な皮肉のきいた文章で、自分自身の健全さを保つ上で大切だと感じました。なので紹介します。

Los Angeles Review of Booksで公開されている、The Quarantine Files: Thinkers in Self-Isolation - The Quarantine Files: Thinkers in Self-Isolation で、人文社会系の高名な研究者たちが、自己隔離(self-isolation)での考え事や提案などを短く綴っています。

今回、ちょっと紹介したいのは、サイモン・クリッチリー。結構翻訳も出ている思想家です。

ウィキペディアもありました。

1.口を閉じろくそったれ!

3.11のときもそうでしたが、知識人や大学関係者は、危機やショックに際して、勢い真面目になりがちです。それはもちろん必要なことですが、自主隔離のような息の長い問題については、シリアスさは息を詰まらせますし、その中で過剰な物言いや対立を生み出すこともあるでしょう。

クリッチリーの文章の底を流れるのは、いらだちとからかいです。冒頭にはこんな文章が。

ちょっと言わせてほしいのですが、あらゆることに、少しばかりイライラさせられるんですよ。(But can I just say that the whole thing irritates me a bit?)

クリッチリーのいら立ちのトリガーの一つは、こうして高名な哲学者が自己顕示的な文章を書いている現状のようです。ジョルジュ・アガンベン、スラヴォイ・ジジェク、ジャン=リュック・ナンシーの名前が挙がっています。

クリッチリーは、自分たちのような知識人に必要なのは、公衆に話しかけることではなく、植物に話しかけることだと言います。

私たちは、しばらくはただ口を閉じて、植物にでも話しかけた方がいいのかもしれない。私にとって植物は、いつだって、新しいネタを話すときのノリのいい聴衆なんです。ちょっとばかり静かかもしれませんが、ロサンゼルスで講演するのと似たようなもんですよね。(But maybe we should just shut the fuck up for a while and talk to our plants. I’ve always found plants a receptive audience for new material. A little quiet maybe. A bit like giving a talk in Los Angeles.... )

彼らの動機の真面目さは疑うべくもありませんが、まぁ「口閉じて黙れ」と率直に言う代わりに――実際には別の箇所で「口を閉じろ」と言っているのですが――「植物に話しかけてごらん?」と、茶目っ気たっぷりに言い換えているわけです。

もう一つ言いたいことがあります。大切なことです。デカルトが1,2週間ほどオランダ製の乳製品だけをお供に一人過ごしたとき、彼はソーシャルメディアで「ショッキングピンクのカバーとエッジの効いたタイポグラフィで『省察』という本を出版する予定なんです」などとアナウンスしませんでした。そうでしょう? 彼は出版エージェントや広報担当に連絡を取ったり、著名人の推薦やライブストリーミングイベントをするかどうかと話し合ったりなかったんです。(But this is my other point, the important one: after a week or two of self-isolation with only Dutch dairy products for company, Descartes didn’t announce on social media that he was going to publish the Meditations with a shocking pink cover and edgy typography, did he? He didn’t contact his agent and publicist and discuss the possibility of celebrity endorsements and maybe a live-streaming event.)

口を閉じろという発言の背景に、私が重ねたくなるのは、エリック・ホッファーの知識人批判です。彼は『波戸場日記』で、こういうことを言っている。

知識人は傾聴してもらいたがる。知識人は教えたいのであり、重視されたがる。自由であるよりも、重視されることの方が大切なのであり、無視されるくらいならむしろ迫害を望む。(大意)


2.知識人こそが孤独に堪えられていない

口を閉じろと同業者たちに、口を閉じずにクリッチリーがしゃべっているのは、デカルトがソーシャルメディアで自己宣伝したりしなかったように、何か思索を積み上げるには、自分自身と対話する時間が必要だということを哲学者たちに思い出させるためです。

哲学は、いつだって孤独〔自己隔離〕に関係していました。私はそう理解しています。デカルトは、三十年戦争の脅威の最中で兵士になった後、オランダにある暖炉付きの小屋に引きこもり、確実性ある本質について考え始めたのですが、それは従来持っていた自身の考えを苛烈に破壊し始めることでもありました。(Philosophy has always been about self-isolation. I get it. After being a soldier in the extended horror of the Thirty Years’ War, Descartes withdrew to his oven in the Netherlands and began to ponder the nature of certainty, which began with a rigorous destruction of all his former opinions. )

アレントを思い出しますよね。孤独(solitude)と寂しさ(loneliness)は違うと言った『全体主義の起源』のアレントです。同書の終盤で、自分自身といることができず、自分自身と話すことができないでいる状態を「寂しさ」と彼女は結び付けています。

知識人は、話を聞いてもらいたがるあまり、口を閉じ、自分自身と過ごすことができなくなっているのかもしれません。本当は知識人こそが、それを進んで実践できるだけの徳を持っているべきだと素朴には思うのですが。

そういうわけで、クリッチリーは、新型コロナウィルスの不安によって、世界が言葉や解釈を求め、それに安易に知識人たちが応えている事態にいら立ち、皮肉を投げかける。

つまりは、ウィルスは世界にとっては本当に痛ましいことに思えるけれども、こうした哲学者にとっては市場機会があるです。よっしゃ、本を売ろうぜ!(In other words, the virus might look really bad for the world, but — hey — there’s a market opportunity for philosophers here. Let’s sell some books!)

よっしゃ、本を売ろうぜ! まぁ、このクリッチリーの皮肉は、こうして書いている自分自身にも向けられる皮肉です。

もちろん、これほどまで読んでくれた熱心な読者がいるなら、この散文のメッセージ(つまり、口を閉じろくそったれ)と、こうして出版しているという事実のあいだにある、行為遂行的な自己矛盾に気づいたかもしれません。主よ、行為遂行的な矛盾です!(Of course, the keen readers out there who have got this far and not given up, might have noticed the performative self-contradiction between the message of this prose (shut the fuck up) and the fact that I am publishing it. Lord, a performative contradiction!)


3.意見を持たない自由

このクリッチリーが問題視していることは、私自身ずっと考えてきたことでもあり、いい刺激を受けました。

以前書いたnoteでは以下のようなことを言いました。

SNSがもたらすのは、私たちに様々な話題を差し向けながら、それについて不十分かつ断片的な情報しかないにもかかわらず、「これについて賛成ですか反対ですか」と問い、「どう思われますか」とマイクを向け合けられる状態だ。

あるいは、こうも述べました。

違う角度の議論につなげるなら、「待つ」ことを奪うということでもある。私たちは、「意見」という言葉を安売りしてしまって、自分なりに調べて考え、時間をかけて意見を醸成するための準備段階として、「意見を宙吊りにする」ということ、「留保する」ということが、ますます不得手になっている。
私たちはご意見番になりたがり、何にでもコメントしたがる分だけ、人の話を聞くことも不得手になっているのかもしれない。

よければ下記をご覧ください。

ソーシャルメディアと口を閉じ、何か表明したくなる、何か不用意に言いたくなる自分、何かうまいこと言いたくなる自分をおさえる訓練が、必要なのかもしれません。

「口を閉じろ」と言うために、口を閉じないで散文を書いたサイモン・クリッチリーの韜晦、私は好きです。

本当に文字通り、とにかく黙ればいいとかそういうシンプルな主張ではないという点で、そして、彼自身黙らずに書いているというアイロニー込みでで、まったく彼の言う通りだと私は思います。

ここまで読んでくれた熱心の読者は、意見を持たない自由について、ぜひ考えてほしい。

追記(April 16th):感想はもちろん自由です。自由なんですが、「世界的に話題の哲学者をバカにするオレかっけー!」という意識が透けて見える感想を表明をする人は、ここで皮肉られている知識人以上に、救いようがなく愚かだと私は思います。皮肉には、適切な距離感が必要だと。(※個人の感想です)

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