哲学者が、近内悠太『世界は贈与でできている』を読むと気になるところ

近内悠太『世界は贈与でできている:資本主義の「すきま」を埋める倫理学』、むちゃくちゃ話題ですよね。

かつて、この本の書評を書きました。書いたのは、株式会社キャスタリアのメディアです。

書評はかなり好意的なことを書き、批判は重要なポイントに絞りました。

なので、ほかの懸念点は削ったのですが、テクニカルな問題点をいくつか本書は抱えています。それが、本書のカギを握る映画「ペイ・フォワード」解釈です。

ネットフリックスやAmazonプライムなんかでも配信されているようなので、映画そのものも簡単に観ることができます。本書のカギを握る「ペイ・フォワード」解釈について、いくつかの問題点を指摘しておきます。


①贈与をめぐる議論と映画解釈の矛盾

「トレバーは贈与を受け取ることなく贈与を開始してしまった」との指摘があります(p.38)。

しかし、本書の結論部分を先取りするなら、「私たちは、常にすでに贈与されてしまっている」ことになります。

トレバーはこの世に生を受けて社会で暮らしている以上、何らかの贈与を受け取っているはずで、「贈与を受け取ることなく贈与を開始」することはできないはずです。

だとすると、著者は「ペイフォワード」解釈で変なことを言ってしまっています。本書の結論と、映画の分析は両立していないからです。

結論と矛盾することを言っているのだとすれば、「ペイフォワード」の議論は必要がなかったということになってしまいます。

もちろん、両立するように映画を解釈することも可能だと思うので、「議論に粗が見える」という程度の話ではあるものの、「哲学」を謳うのであれば、もう少し議論上の配慮があってよかったと私は思います。


②交換と贈与の区別が直観に反するのでは

トレバーが名乗り出た(p.109)ために、トレバーの行いは、「贈与」ではなく「交換」になったとされています。

だが落ち着いて考えると、「交換」は、匿名的・形式的で「誰であってもいい」ものです。だから、「交換」と「名乗り出る」ことには、何の関係もないんじゃないでしょうか。

貨幣による「交換」を例にしてみましょう。誰から買うとか、誰が買うとか、そもそも誰が作ったものかとか、どんな思いでそれぞれが交換に参加しているとか、そういったこととは一切関係なく、「交換」は成立します。

八百屋でも、スーパーでも、「あ、それ私がやりました」と名乗るような状況は想定しがたいはずですし、店員がたとえ名札をしていても、買い手は、それが誰であるか気にしないはずですし、気にしなくて構わないはずです。交換には、このような匿名性があるというのは確かです。

(よくある議論では、通常このようなものとして「交換」は理解されていると思いますし、本書で「交換」と呼ばれるものも、こういう理解に立っているのではないかと思われる一節もあり、やや混乱を誘います。)

匿名的で形式的なものとしての「交換」。この点を考慮すれば、やはり「名乗り出る」ことを理由にして、「贈与が交換になってしまった」と主張するのは無理があるのではないでしょうか。

(少なくとも、本文で名乗りが交換の要件であるという話は、かなり唐突に出てきます。たぶん、サンタクロースの話につなげるためだと思いますが、贈与は匿名的であるという特徴づけは、通例の贈与論にはないもので、なぜこれが「贈与」と呼ばれるべきなのかは、読者として説明が欲しかったなと思います。)

そして、よくよく考えると、「贈与」こそが「誰かである」ことを重視することのように思われます。つまり、「贈与」は、「名乗り出る」こととそれほど相性が悪くないのではないか、ということです。

例えば、友人がこっそりあなたを助けるのは、あなたが他の誰でもなくあなただからでしょうし、目の前で血を流している人がいて、思わず介抱したとすれば、それは他ならぬその人からあなたが呼びかけられているからのはずです。

つまり、通常考えられるような「ペイフォワード」(善意)や「贈与」は、匿名的では決してなく、何らかの仕方で「他でもないその人」という性質を持つのではないでしょうか。

要するに、「顔」が何らかの仕方で見えることが重要なのだと思います。しかし、これらの論点について、本書は、整理や分析が行き届いていないように思います。


The details are not the details. They make the design.

哲学者は、こんな風に、語られていることの矛盾を見つけ、より首尾一貫したものにするのを手伝うことが得意です。より安定したところで、より適切な言葉遣いで、物事を記述したいと思っているからです。

ただ、もちろんこういう細かなところだけを気にしているわけではありません(これは哲学者になるプロセスで身に着けるスキルの、些細な一つにすぎません)。しかし、細部こそが物事を左右していくのだという考えもあるでしょう。

デザイナーのチャールズ・イームズの言葉を借りれば、 “The details are not the details. They make the design.” ということです。

そうだとすれば、こういう視点やチェックも、ばかにはならないということでしょう。

私も職業哲学者ですので、「哲学」の名のもとに目立っていることには注目していて、本書もそうなので、感想を一つ,二つ述べさせてもらいました。

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