鯨の胃/棺から六億年後に出ることーー「植物園」(宮沢もよよ)、ピノキオ、3月のライオン

宮沢もよよさんという人の、「植物園」という曲が本当に好きで、2012年にネットで公開されて以来、毎月のように聴いています。

歌詞はこんな風に始まります。

Ah ひび割れた小瓶を投げた朝に 僕は夢をみる Ah まるで鯨の胃の中のようだ 喰らい続ける

Ahから歌が始まるという斬新さよ。

「ひび割れた小瓶」というモチーフがどこから来ているかわかりませんが、「鯨の胃の中」は間違いなくピノキオですよね。

あらすじを改めて調べてみて驚いたんですが、ピノキオはさる出来事を受けてパニックになり、その現状や感情をどう処理することもできずに、海に飛び込んだ結果、鯨に飲まれるんですね。

私たちは、ピノキオが元々木偶であることを文字通り受け取っていますが、その属性をペンディングすれば、「心の理論」を持たず他人のことを直感的に理解することのできないピノキオは、自分では何がいけないかわからないまま翻弄され続ける弱者に見えてきます。

旅を経て色々「学習」したピノキオは、妖精に認められ、「いい子」の太鼓判を押されます。

けど、ピノキオはそもそも押しも押されぬ「いい子」になる必要があったんでしょうか。そんな都合のいい「社会化」の枠に、あの子を押し込めてよかったんでしょうか。 

 脇道にそれました。それはさておき、物語では、勇気を出してピノキオはおじいさんと鯨の腹から出ていきます。

けど、「植物園」はそうならない。

Ah まるで鯨の胃の中のようだ 逃げられはしない Ah さようなら世界 鳥たちが今 壁を越えていく Ah 箱庭の中で 君と僕は 踊り続ける だけど それだけ

この暗闇から逃れることはできない。暗闇から脱することができるのは、鳥のように、最初から羽を持っている存在だけです。

「まるで虫歯の 暗闇のよう」な、そんな小さな暗がりに囚われて、ずっとそこで扉が開くのを待ち続けることしか、彷徨い続けることしかできない。

Ah ざらついた棺 六億年後に 開くのを待ってる

鯨の胃のように広く思える箱庭は、外から見れば、虫歯の暗闇か、ざらついた棺ほどの広さしかないんでしょう。けれど、そんな小さな穴に嵌って動けなくなることを、人は笑えるでしょうか。

もちろん、そんなことを言ったって仕方がないことは、「植物園」の歌詞の「僕」はわかってもいる。

ああ! ここにいたって 救われはしないよ 逃げた亡霊

もう死んでしまうことができた存在は、亡霊として逃げることができる。

「僕」は、暗闇の囚人として、棺に入り、ほとんど死んだような存在でありながら、同時にどこかで生きることにすがりついているようなところがある。

ああ! 腐葉土の空へ 転落しそうさ 迷い続ける

天と地もわからない暗闇の中で、前すら定かでないところで、「僕」は、迷うこと、彷徨うことだけ続けている。

仏教では、弥勒菩薩が衆生を救いに五十六億三千万年後にやって来るとは言いますが、そうやって、主観的には途方も無い時間を経て外から誰かに救われるという感覚には、私は個人的に共感を抱きます。

誰かに棺を開けてもらうまで(棺は外から封されますから)、私は棺から出ることができない。

私の大好きな小説の言葉で、助けてもらうお礼を言われる度に、「助けないよ。君が勝手に助かるだけだ」というものがあります。これはこれで正しいのでしょう。

けど、同時に弥勒菩薩や棺の喩みたいなリアリティも同時に正しいような気がします。外から思いもよらない仕方で助けられるという感覚です。

先般、実写映画化された「3月のライオン」では、人はずっと時間が経ってから思いもよらない仕方で、嵐のように救われることがある、というエピソードが描かれています。

クラスメイトのいじめに声をあげ、いま自分がいじめの対象になってボロボロになっても、「声をあげたことを後悔しない」と、ある人が宣言するのを聞いた主人公は、かつていじめを受けた経験を思い出します。その傷は、忘れていたつもりでも、じっと澱のように心に沈んでいて、自分を縛っていた。その言葉を、宣言を聞いてはじめて、主人公は、抱えていた苦しみから救われた思いがします。

ここで、主人公は勝手に救われたのでしょう。けれど、自分の力でそこから出ることもできなかったはずです。一人の人間に、そんな大層な力はない。

「私は絶対に後悔なんてしない」と悔しそうに怒りをにじませ、それでもいじめに立ち向かおうとするボロボロの姿は、主人公を助けるための言葉でも主人公を助けるための振る舞いでもありません。

しかし、全然文脈の違う言葉や振る舞いに、あまりにも簡単に人は救われてしまうということがある。その人にとっては大したことではない言葉をかけられることで、嵐が通り過ぎるみたいに、自分の悩みがなぎ倒されるということがある。

こうした考えに立つと棺の比喩がとても巧みに感じられます。というのも、棺は中から空けられないけれど、外からは容易に開けられます。棺に打たれた釘なんて、道具さえあれば誰でも外せるんですから。

とすれば、自己にできるのは、出口を探して彷徨い続けることだけなのかもしれません。それ以上のことができると思わず、ただ迷い続けることで、「ざらついた棺」が「六億年後に開くのを」待つこと。それだけ。

「植物園」を聴きながら、そんなことをいつも考えています。

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