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一定の規則に従いさえすれば「道徳的」なのか——ジョン・デューイ本連載⑤

好評の(?) #デューイ連載 、今回は第4回目。

前回は、近代科学がもたらした「仮説」という考え方について話しました。詳しくは読み直してみてくださいね。

さて、今回は、「道徳」がテーマです。「仮説」という考え方を道徳の領域に持ち込むとどうなるのかという問いに向かい合っていきます。

ちなみに、道徳と倫理という言葉の違いですが、哲学業界で定まった使われ方をしているわけではありません。さほど違いがないと考えてよいと思います。どちらも善に関わることであり、習慣や習俗に関わることであるというくらいのイメージで問題ありません。

あとは、哲学者や文脈ごとに、どういう使われ方をしているかを観察して、その都度理解するほかないでしょう。確か、伊藤亜紗さんの『手の倫理』の言葉遣いがそうですが、語感的に「道徳」に社会的なニュアンス、「倫理」に個人的なニュアンスが出ることもあります。しかし、この辺りも人によって使い方がかなり違うので、やはり統一的な意味や使い分けがあるわけではありません。



道徳は、規則に従うことではない

 デューイは、哲学が観察や思考を終わらせるものというより、それを一層促すものだと考えていた。

哲学は仮説しか提供することができず、しかもその仮説の価値は、人間の心を周囲の生活に対して敏感にさせる点だけにある、などとフランクに言ったら、哲学そのものの否定のように見られるだろう。(RIP, p.12=30頁)

もちろん、デューイは旧来的な意味での「哲学」を否定しているため、ある意味でこれは当たっている。哲学は仮説を提示するだけであり、それ以上でもそれ以下でもないという見方を採用することが大切だと彼は考えていた。

 デューイのような哲学観に立つと、「考え」「理論」「見解」などと呼ばれているものを、到達点ではなくスタート地点として扱うことになる。とりあえず試しにやってみて、その結果が予想された帰結と異なるなら、やり方を変えたり、仮説を変えたりして……といった試行錯誤を繰り返す実験主義的な姿勢をもたらすことになる。

 この実験主義を「道徳」ないし「倫理」の領域に当てはめるとどうなるかと論じているのが、『哲学の再構築』第七章「道徳的概念の再構築」だ。この章では、もちろん多岐にわたる議論が展開されているが、特に魅力的なのが次の引用である。

道徳は、行為のカタログでもなければ、薬局の処方箋や料理本のレシピのような当てはめられるべき一連の規則でもない。道徳は、探求のための特定の方法、そして工夫のための特定の方法のために必要なのである。〔その特定の方法とは〕すなわち、困難や弊害を突き止める探求の方法、そして、それらに対処する際に作業仮説として用いられる計画の作成を工夫する方法のことである。(RIP, p.97=180頁)

引用文の「道徳」は、“morals”となっている。この複数形には、日本語で「モラル」というときに指しているもの(社会的に流通している「正しさ」)だけでなく、哲学業界で論じられている倫理学説や道徳理論などが該当している。

 デューイがこの引用文で語っているのは、どの道徳的見解にコミットするとしても、モラルは「マニュアル本」のようなものではない、ということだ。つまり、ある一定の規則に従いさえすれば、自動的に「道徳的」と認められるようなことはない。モラルは、道徳のルールブックではなく、大まかな指針を示すことしかできないガイドブックであって、モラルの役割はそれ以上のものではない。

 もっと具体的に考えてみよう。例えば、書店で倫理学の入門書を読むか、会社の研修を受けるかして、何か倫理的な立場について学び、それが適切な見解だと思われたとき、それとどう付き合うべきだろうか。デューイの立場は、「いつ何時も、それに従って生きねばならぬ……」などと考える必要はないというもの。モラルとは、何か唯一の答えを教えるものではないからだ。倫理学の見解を、絶対的な原理や法則として捉えるのではなく、ある立場からの大まかな行動の指針(=仮説)——あるタイプの状況において、大まかに正しいとされる行動の概略——と捉えた方がいい。デューイはそう考えたのだ。


暗闇の中の跳躍としての「一般化」

 先に見た引用文の少し前には、「一般化」に関する興味深い議論がある。「ある一定の規則に従えば道徳的と言えるのか」問題を考えるヒントになるので、こちらも見ておこう。

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