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近代科学は哲学をどう変えたのか―—ジョン・デューイ本連載④

さて、書籍化のためのジョン・デューイ論の連載、今回は四回目になりました。

#デューイ連載 というハッシュタグをいずれの記事にもつけているので、さかのぼって読みたい人はそちらが便利です。

前回はこちら!


今回は、ジョン・デューイが論じる、西洋の自然観の変化と、自然科学論です。自然観や科学論は、どう哲学と結びついているのでしょうか。この辺りが今回の見所です。


近代以前の自然観

 『哲学の再構築』の第三章「哲学の再構築における科学的要因」と題されている。いわゆる「科学革命」を経て、近代科学が立ち上がるまでに、世界観や自然観が劇的に変化するのだが、デューイがこの章で追いかけるのも、まさにこの変化である。

 科学革命以前の自然観を、彼は次のように整理している。

さて、昔は最も知的な人でさえ、自分の住んでいる世界が、固定的世界であり、静止と永続という不変の範囲内でのみ変化が起こる領域であり、……固定的なものと不動のものが、動くものと変化するものよりも質と権威において高位にあるような世界であると考えていた。(Dover, pp.31-2=62頁)

この文章は、アリストテレスをベースとして展開された自然観を念頭に置いたものだ。大切なのは、アリストテレス哲学の細かな情報を紹介する目的で上記の文章が書かれたわけではないことだ。彼の関心は、こうした古い自然観と、近代科学以降の自然観を対比して、後者にどんな哲学的な意味があるのかを読み取ることに向けられている。

 デューイの関心を説明する上で有用なのは、「自然(nature)」という言葉である。日本語の「自然」もそうだが、"nature"という言葉には、自ずからそうあるべく定まっているというニュアンスがある。本来的に定まった性質、つまり「本質(essence)」のようなものがあり、人間が何かを正しく知るとは、それを正確に写し取ることだとされたのである。ジョン・デューイを知的なヒーローと仰ぐ、リチャード・ローティ(1931-2007)という人物は、こうした発想を「自然の鏡(mirror of nature)」と表現し、批判している。

 人間は、ここで「鏡」に喩えられている。では、なぜ人間が「鏡」に喩えられているのか。歪みがあってはその役割を十分に果たすことができないという「鏡」の連想を借りるためである。然るべく定まった姿を、ノイズなく純粋に捉えることができれば、「真理を手にした」と言っていいだろう。「自然の鏡」というメタファーで括られているのは、こうした知識観・真理観である。

 歪みなく真理を「鏡」に写したいという発想と、「固定的な世界」、「静止と永続」、「不変」、「不動」といった世界の捉え方はどうにも相性がいい。というのも、「鏡」に映す対象が不動で定まった形をしていなければ、「予め定まった一つの姿を人間が捉える」という真理観を維持できないからだ。こうした見方からすると、「動くもの」や「変化」などのダイナミックな要素は、ノイズとして排除されるべきものとなる。先に示した引用は、こうした「自然の鏡」的な世界の捉え方について語っている。


実験器具の使い方と、スピノザのレンズ磨き

 この種の見解には色々な問題があることで知られている。これをどのように退けるかというと、色々なやり方があるのだけれども、前回の記事で扱った「感覚の相対性」についての議論に注目すると見通しよく反論できる。

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