未来社会を思い描くときに、人はなぜ「昔見た夢」を持ち出すのか

去年観に行ったシンポジウムがあって、そのときのメモを死蔵するのももったいないと思い、一部提示します。

タイトルの割に、深い内容があるわけではないのですが。

未来社会を思い描くときに、人はなぜ「昔見た夢」を持ち出すのか
⇒未来について、実は特に予測や仮説を持っていない
⇒正確には、未来について「疑問」を持ったことがない。必要に駆られて思い描くと、かつての夢を持ちだすのでは。

ここで、「昔見た夢」と書いたとき念頭に置いているのは、未来社会(数十年後など)について想像しろと言われたとき、「空飛ぶ車」を思い描くような感覚のことです。

未来社会で実現するだろうものの例として、空飛ぶ車についてうれしそうに言及する登壇者がいたので。

手塚治虫がアトムを連載開始したときくらいのテンションで未来を想像していますよね。これはちょっと……と思った次第です。

その想像は誰を喜ばせているのか。

……まぁ、団塊の世代のおじさま方は喜びそうですよね。

もう少し言い換えると、私たちは「未来社会を想像せよ」と言われると、自分の世代や、自分が属する文化集団を喜ばせるような想像をすることが多いように思います。

現代が危機と課題に満ち溢れているように、未来の予測にだって、暗いものが含まれていてもおかしくはないのですが。

というより、上の世代がポジティブなことばかり未来について語るのは、(例えば環境問題についての)悲観的な予測を無視するような無責任を果たしているように、私の眼には見えてしまいます。

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